22/8/6(1) 麻場城

この日は昼前に外出し、上信電鉄上州新屋駅から南西へ1.2kmほどの場所にある麻場城址公園へ向かいました。

概要

その名の通りこの場所は白倉城とも呼ばれる麻場城の跡で、主郭とその付近の遺構が残っています。

麻場城散策

城域南西から向かう道。
下調べが足りず遠回りしてしまいました。
現在畑地になっている二郭から北の城址公園方面を見ます。
城址公園入り口付近の標柱と想像図が設置されています。
公園入口付近から二郭内の主郭側土塁を見ます。
二郭側から主郭虎口を見ます。
喰違いになっています。
二郭と主郭間の空堀。
二郭側から主郭を見ます。
想像図では土塁が描かれていますが現在は何故か土塁が無い状態となっています。
主郭から北側の帯曲輪を見ます。
主郭西側帯曲輪には堀切らしき遺構が見受けられます。
主郭西側空堀を北側から見たもの。
主郭北側帯曲輪にある展望台。
前には復元ではないという旨の注意書きがあります。
展望台から城域北側を見ます。
主郭北側帯曲輪。
北側帯曲輪から一段下がった場所にある腰曲輪。
主郭北東にある堀切。
堀切付近から主郭を見ます。
ここから城域下への道が造られています。
城域の北東下に設置されている説明板。
城域を北側から見たもの。

麻場城歴史

この城が築かれた時期は不詳ですが、戦国時代には当地の豪族である白倉氏の居城だったと見られています。東500mほどの場所に置かれた仁井屋城と一体の城だったと見られている様です。
白倉氏は武蔵七党の一つ児玉党の流れを汲むとされ、家祖である白倉成季は1221年の承久の乱で討ち死にしたとされているようです。
室町時代には山内上杉氏に仕えて上州八家に数えられていた様で、重佐の頃は上杉憲政のもと四宿老の一つに数えられていたそうです。
重佐の子、道佐は憲政から関東管領を継承した上杉謙信に仕えた様です。
しかし武田信玄が箕輪城の長野氏を攻めると支えきれず武田氏に降ったそうです。
1580年、道佐は後北条氏との戦で討たれ、子の重家が継ぎます。
翌81年、武田氏が滅亡すると織田氏重臣で関東鎮定を担当していた滝川一益に降ります。
翌82年、本能寺の変後一益が神流川の戦いで敗れて関東を去ると後北条氏に降ります。
1590年、小田原の役に際しては重家は小田原城に入り、城は弟の重高を置いて守らせたとされていますが、前田利家を総大将とする軍に攻められて落城し廃城になったと言われています。

感想

現在は主郭の二郭の一部が城址公園として整備されています。
台地先端に置かれた主郭を空堀で囲み、その外側を堀切も入った帯曲輪で囲んだ構造が特徴的な構造です。
現在主郭に土塁は見当たりませんが、想像図では土塁は置かれている様に見えます。
また主郭北東に直接主郭に登れる道が設置されていますが、それに気付かず城域南西から回り込む形になりました。

参考

現地説明板

余湖くんのホームページ

白倉氏 – wikipedia

スポンサーリンク
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください