22/4/8(1) 宮原御所

この日は昼過ぎに外出して、小湊鉄道上総村上駅から南へ3.5kmほどの場所にある明照院へ向かいました。

概要

この場所は古河公方足利高基の子で関東管領にも就任した足利晴直(上杉憲寛)隠棲の地とされています。

散策まで

JR五井駅から乗り換えようとした際、小湊鉄道のホームに里山トロッコ列車が停車していました。
城域最寄りの上総村上駅。
昭和2年に建てられたという駅舎は国指定文化財だそうです。

宮原御所散策

城域南側にある明照院山門。
山門脇には標柱らしき物が立っていますが、古びて読めませんでした。
明照院境内にあるお堂。
境内の桜。
城域西辺の土塁を南側から見ます。
北西部の土塁。
城域北側。本堂裏手に当たります。
城域北側の土塁を西側から見ます。

宮原御所歴史

この場所にあった宮原御所は古河公方足利高基の四男として生まれた晴直が住んでいたとされています。晴直は関東管領上杉憲房の養子となり、上杉憲寛と名乗ります。
1525年、憲寛は憲房が没すると実子である憲政が幼少であった事から、山内上杉氏の家督と関東管領職を相続します。
しかし1529年には家臣の中には憲房の実子である憲政を擁立するものがいたため、山内上杉氏家中で内紛が勃発します。
その後1531年、憲寛は内紛で敗れて真里谷氏を頼ってこの地に落ち延びたと云われている様です。その後は将軍足利義晴から偏諱を受けて足利晴直と名乗った様です。
1551年、晴直はこの地で没したとされています。また現地で聞いた話に拠れば、没後息子の義勝は古河に屋敷を与えられて移り住み、館跡には晴直のために明照院が建立されたと云われている様ですが、孫の義照までは宮原に居していたとする見方もある様です。
1590年、義照は関東入封した徳川家康に旗本として召し抱えられて宮原姓に改めると下野国足利に1040石を与えられ、女系継承を経ながら宮原氏は幕末まで存続したようです。

参考

余湖くんのホームページ

上杉憲寛 – wikipedia

宮原義照 – wikipedia

宮原家 – wikipedia

スポンサーリンク
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください