22/3/7 森山城

この日は昼過ぎに外出し、JR成田線笹川駅から西へ2kmほどの場所へ向かいました。

概要

この場所は鎌倉時代に千葉一族の東胤頼によって築かれたとされる森山城の跡で、遺構も残されています。

森山城散策

三の郭、二の郭

城域東側の大手口。
大手口北側の空堀。
大手口内側にある三の郭。
三の郭南側を見ます。
二の郭虎口。
虎口側から二の郭内を見ます。
二の郭虎口南側の土塁。
二の郭南側を見ます。
二の郭を二分している長南堀と思われる辺り。
二の郭から主郭虎口方向を見ます。

主郭

主郭虎口の馬出。
主郭虎口。
馬出の脇を通ります。
主郭虎口西側。
主郭空堀南側。
主郭空堀北側。横矢を掛けるために張り出しています。
主郭虎口の南側土塁上に設置された標柱。
主郭虎口北側土塁から虎口を見下ろします。
虎口から主郭内を見ます。
主郭内に設置された縄張り図。
主郭西側から見ます。
主郭西端部にある搦手口。

森山城歴史

この城は鎌倉時代に千葉常胤の六男、東胤頼によって築かれたとされています。
平安時代末期の治承・寿永の乱で頼朝方として貢献した常胤より、胤頼は東荘(現在の東庄)を継承し東氏を名乗ります。
胤頼の孫、胤行は1221年に起こった承久の乱で専攻を挙げ美濃国山田荘の地頭職を与えられ、美濃国に移ります。
東氏が移った後は胤行の弟、海上胤方の子孫である海上氏の勢力下にあった様です。
戦国時代には千葉氏当主昌胤の次男である胤富が海上氏に入って城主となった様ですが、弟にあたる千葉親胤が暗殺された事により千葉氏23代目当主、千葉胤富として本佐倉城へ移ったため、胤富の弟である胤盛が海上氏に入って城主となります。また胤富の頃から後北条氏の下で城が整備されていった様です。
またあるいは胤富の後は重臣である原氏の原胤家、親幹親子らが城主になったとも云われています。
1590年、小田原の役後に廃城になったと見られています。

感想

東西620メートル、南北430メートルとそれなりの規模を持つ城という事もあり城内は畑地や牛舎などとなっていますが、遺構は比較的残っている様です。
主郭は比較的整備されていて、虎口は城内でも一番の見所という印象を受けました。

参考

現地説明板

図説 房総の城郭

森山城 – wikipedia

東氏 – wikipedia

スポンサーリンク
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください