この日は昼過ぎに外出して、JR相模線寒川駅から南西に700mほどの場所にある一之宮天満宮へ向かいました。
概要
この周辺は鎌倉時代初頭の御家人である梶原景時の館があった場所と云われていますが、明確な遺構はほとんど見受けられず痕跡程度となっています。
梶原景時館散策
梶原景時館歴史
この場所は梶原氏の館があったと云われています。
平良文の流れを汲む鎌倉氏の分家である梶原氏は一之宮を所領としていた様です。
梶原氏を名乗ったのは鎌倉景通の子である景久からですが、梶原氏がいつからこの地に館を構えていたかなどは不詳な様です。
ちなみに景時は景久の曾孫で4代目に当ります。
1180年、源頼朝が挙兵すると景時は同じ鎌倉氏一族である大庭景親とともに迎え撃ち石橋山の戦いで破ります。この様に当初は頼朝と敵対していたものの、この合戦後に頼朝を見逃すなどしています。
その後頼朝が安房国を平定して再挙して勢力を拡大し鎌倉に入ると、翌年景時は頼朝に降伏したと言います。
その後景時は頼朝方として平氏との戦いで功績を上げるも源義経と対立した事で知られています。
鎌倉幕府成立後の1199年、頼朝が没後嫡男頼家の職務が停止され合議制が敷かれると、景時もその内に列したそうです。
しかし頼朝没後も権勢を振るう景時に対し反発する御家人も多数おり、御家人たちと対立した結果鎌倉を追放されて職も剥奪、一之宮に引き上げたと言います。
1200年、上洛しようと西へ向かった景時たちは駿河国清見関付近で在地の武士たちに発見された景時たちは戦闘となり、景時を始め一門の多くが討たれます。
その後梶原氏の家督は弟の朝景が継いだとされていますので、一之宮も朝景が領有したと思われます。
1213年、和田合戦にて朝景は和田氏方として参戦して討たれ、梶原氏は没落します。
おそらくこの際に所領は召し上げられ館も廃止されたものと思われます。
しかし室町時代の1456年、享徳の乱に際して渋川義鏡の家臣である板倉頼資が陣を置いたとされています。現在の城域はその頃の遺構とする見方もあります。
感想
寒川神社へ初詣するついでにと訪れました。
しかし館跡とするには城域は思いの他広く、土塁遺構とされる場所を見つけるのに手間取った事もあり初詣思うように行きませんでした。結局一ノ宮天満宮から斜向い辺りの路地から入った場所だったという訳ですが。
ただ鎌倉時代の館跡と考えると広い城域ですが、後世の陣城と考えると納得行くと言えそうです。
参考
現地説明板
神奈川中世城郭図鑑
梶原氏 – wikipedia