21/7/30 家之子御所

この日は昼過ぎに外出して、JR東金線求名駅から北西へ1.5kmほどの場所にある妙宣寺の裏手に向かいました。

概要

この場所は建武政権時代から南北朝にかけての時期に築かれた館である家之子御所があったとされています。

家之子御所散策

東から見た城域。
城域の麓にある妙宣寺山門。
妙宣寺本堂。
本堂の位置も山門より少し高くなっています。
本堂裏手の道を登っていきます。
道を登ると二郭になっています。
二郭の南側にある土塁。
二郭にある「髪洗いの井戸」と思しき構造物。
脇に案内があるものの、これがそうなのか判断は付きかねます。
二郭の西側、城域を縦断している横堀。
二郭から主側の郭を見ます。
一面植物が生い茂っていたため、これ以上は進んでいません。
主郭虎口脇にある土塁。

家之子御所歴史

家之子御所は建武政権時代から南北朝時代にかけての時期に築かれたと云われているようです。
築いたのは後醍醐天皇の子である護良親王の娘と云われている、華蔵姫とされています。
1335年、護良親王が征夷大将軍の職を解かれて鎌倉にて幽閉されていた事を知った華蔵姫は京から鎌倉へ向かったそうです。
しかしその途上、護良親王は中先代の乱を起こした北条時行の軍に身柄が渡ることを恐れた、足利直義の命により殺害されます。
そのため姫は鎌倉の更に東、上総国の日入西島に身を隠し、この地は姫島と呼ばれる様になったそうです。
それから更に安全な場所を選び、姫島の西に当たる要害の地に御所を構えます。姫は父の冥福を祈って過ごしたとも云い、出家していたかは分かりませんが、尼御所とも呼ばれている様です。
1343年には御所は「宮家の子御所」と呼ばれるようになり、そこから転じて「家の子村」と改称されたと伝えられている様です。

感想

皇子の娘という、一見戦とは縁遠い身分を起源と云い伝えている城館跡です。
現在は本丸、二の丸と2つの曲輪が残るとされていますが、台地先端に当たる北側の曲輪が主郭と見られている様です。ただこちらの曲輪は進入出来ていません。
また現在残っている曲輪は「御所」を構えるには手狭に見え、実際には曲輪の南側、現在墓地となっている辺りか麓の妙宣寺本堂のある場所に御所が構えられ、現在残っている曲輪は物見や逃げ城に相当する役割では無かったかとも思えます。

参考

華蔵山妙宣寺略縁起

余湖くんのホームページ

華蔵姫 – wikipedia

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