21/7/23 高津戸城

この日は昼頃に外出して、わたらせ渓谷鐵道大間々駅から北東へ600mほどの場所にある要害神社へ向かいました。

概要

この要害神社周辺は平安時代に築かれた高津戸城の跡とされ、現在も山城の遺構が残っています。

高津戸城散策

城域まで

城域南西から見た遠景。
高津戸橋から見た城域。
城域の南を流れる渡良瀬川に流れる高津戸橋。
高津戸橋から高津戸峡を見ます。
高津戸橋を渡った辺りから近道があります。
近道からさらにショートカットする山道を登って行きます。

城域内

高津戸公園駐車場。
この辺りも城域とされています。
展望台から西側を見ます。
駐車場から主郭の要害神社へ向かう参道。
左手側に小規模な土塁があります。
参道入口右側脇の土塁。
こちらは大きめな物です。
参道を入った直後の場所にある竪堀。
参道最初の鳥居。
鳥居の先はV字に折り返す形です。
鳥居の先にある折返し道。
更に進んでいきます。
右側は小曲輪が見受けられます。
2つ目の鳥居前にある平場。
2つ目の鳥居内は二郭となっています。
主郭にある要害神社社殿。
主郭から二郭を見下ろします。
城域北東の尾根道には複数の堀切があります。
これは二本目の物ですが、現在確認出来る堀切はさほど明瞭なものではありません。
堀切の側面を見たもの。
城域南端部にある展望台。
城域南端部からの光景。

高津戸城歴史

この城は平安時代の寛治年間に山田吉之によって築かれたと云われています。
この山田氏についての詳細は定かでは無く、土豪では無かったかと思われます。
1351年、10代目城主山田則之の頃、桐生氏家臣である谷直綱によって攻め落とされ、山田氏は滅亡した様です。
変わって桐生氏より新たな城主として里見義連の三男である氏連が仁田山などを与えられ、仁田山氏と改姓して入城します。仁田山は山田氏の旧城があった場所でもある事から仁田山氏には山田氏の旧領から多くを与えられたと思われます。
1574年、仁田山氏5代目と思われる宗連の頃、上杉謙信の軍に攻められて宗連は自刃し落城した様です。

その後の出来事として、仁田山氏の同族である安房里見氏の里見勝広とその子である勝政、勝安兄弟に関する伝承がある様ですが、存在が裏付けられておらず後世の創作と見られているようです。

参考

現地説明板

余湖くんのホームページ

高津戸城 – wikipedia

日本城郭全集3

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