16/1/2 鹿島城

今日は昼頃に出て、JR鹿島線鹿島神宮駅から南西500mほどの場所にある城山公園へ。
ここは鹿島城があった場所で現在は本丸が公園として整備されています。

(左)公園北側から城域に入ります。
(中)公園内の登り道。
(右)本丸北側の腰曲輪。

(左)公園内の本丸跡。
(中)城跡碑と城跡碑の文面を記した説明板。
(右)鹿島城址記念碑(現代語訳)

(左)城跡碑付近から西の北浦を望みます。
(中)公園内の本丸跡を取り巻いている遊歩道はどうやら土塁跡のようです。
(右)本丸虎口を外側から見ます。

本丸南東側の空堀跡。

本丸北東側の空堀跡。こちらは草木が多く、外側からは見難いです。

(左)公園の南、二の丸との間から西を見ます。左手側が現在鹿島高校などになっている二の丸。右手側が本丸の城山公園。
(中)二の丸西側。この辺りに水濠があったようですが、下調べ不足ではっきりしませんでした。
(左)城域南西から二の丸を見ます。そしてこのまま東へ進んで鹿島神宮へ参拝してきました。

この城を築いたのは鹿島氏の鹿島成幹と言われています。
成幹は平国香の6世孫で平安後期の人物、大掾氏一族である吉田清幹の三男でしたが鹿島に居を構えて鹿島氏を名乗ります。
また、成幹の孫に当たる宗幹・弘幹兄弟は源平合戦に於いて源氏側で参戦し、屋島の戦いで戦死したと言われているようです。

室町時代には当時の当主景幹が下総の米野井城に侵攻して戦死した後、弟の義幹が後を継ぎます。
その義幹によって鹿島城は大規模な改修が行われたようです。
しかしその後内紛が置き、城を追われた義幹は高天原合戦と呼ばれる戦で、自らが改修した城に攻め寄せて戦死した模様です。
戦国時代には義幹の孫治時が当主に返り咲きますが、治時没後は家督争いから二代続けて当主が家臣に暗殺された上に、江戸氏と下総の千葉氏一族による代理戦争の様相を呈してきます。その際に城は幾度か攻められ、落城もしています。
この争いは1569年から1589年まで断続的に続いたようですが最終的に治時の六男清秀が家督を継ぎます。
しかし翌1590年、小田原の役に参陣し豊臣秀吉より常陸一国を安堵された佐竹義宣は常陸国内での権勢を強化するため、水戸の江戸氏、府中の大掾氏を相次いで滅ぼします。
そして常陸南部に割拠し「南方三十三館」と呼ばれていた鹿島氏ら大掾氏一族の当主を呼び寄せて謀殺した後城に攻め込みます。
鹿島側も防戦しますが、当主を失っていた事もあり落城します。
その後城跡に佐竹氏が陣屋を築いたようですが、佐竹氏が出羽に移封された後は廃城になったと思われます。

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