この日は10月唯一散策に出られる日でしたが雨天でした。
そのため昼過ぎに外出して、東武日光線藤岡駅から北東へ500mほどと駅からほど近い場所にある三所神社へ向かいました。
概要
この三所神社を西端として、東武日光線の線路辺りまで藤岡城の城域だったとされています。
現在遺構は痕跡らしきものが残る程度とされています。
藤岡城散策
(左)藤岡駅北側の踏切を渡った辺りにある案内。駅周辺から三所神社まで設置されています。
(右)神社へ向かう路上右手側の畑を見ると段差があり、堀跡の名残では無いかと思われます。
(左)東側から主郭へ向かう道。右手側は工場になっています。
(右)東側から見た主郭。右手側に三所神社が見えます。
(左)城域西端部にある三所神社は周辺より高くなっていて、櫓台跡とも見られています。
(右)説明板。
(左)三所神社境内。
(右)神社境内から北側を見ると外堀の跡らしき痕跡が見受けられます。
(左)三所神社の南側には土塁の痕跡らしきものが見受けられます。
(右)土塁の外側にある一段下がった平場は腰曲輪跡の様です。
西側から見た主郭。
藤岡城歴史
この城は932年に平将門によって築かれた花岡館が始まりと云われている様です。
940年に将門が討たれると廃城になります。
1018年、藤姓足利氏の足利成行が中泉城として再興すると一族の佐貫重光を置いたと云われています。
藤姓足利氏は平安末期のいわゆる源平合戦で平氏方についたため敗れて没落します。
鎌倉、南北朝に置いて用いられていたか定かで無いようです。
藤姓足利氏の流れを汲む藤岡氏が居を置いていた様ですが、藤岡氏が藤姓足利氏と佐貫氏どちらの末裔かは確認出来ていません。
藤岡氏は後北条氏の傘下にあった様で、佐竹氏や宇都宮氏などに対する備えとして機能していた様です。
1577年には藤岡清房が唐沢山城主の佐野氏に滅ぼされ、佐野氏の拠点となり城代として茂呂氏が置かれた様です。
佐野氏は後北条氏の支配下にあったり対立したりしていましたが、最終的には後北条方に属していました。
1590年、小田原の役に際して落城し廃城になったとされてます。
参考
現地説明板
余湖くんのホームページ
攻城団