19/10/3 霞ノ関

この日は昼過ぎに外出して京王線聖蹟桜ヶ丘駅から南へ1.5kmほどの場所にある熊野神社へ向かいました。

概要

この周辺はかつて鎌倉幕府によって置かれた霞ノ関があった場所だそうです。

霞ノ関散策


(左)熊野神社鳥居。
(右)鳥居の脇には石碑があります。

(左)参道に沿って検出されたという南木戸柵跡。
(右)説明板。

(左)木戸柵跡脇から本殿を見ます。
(右)熊野神社本殿。

(左)本殿裏手の斜面。
(右)本殿前から参道を見下ろします。

熊野神社前の道路。
この道路の向こうまで木戸柵の跡が検出されているそうです。
関所は北側と南側に木戸柵が置かれ、南木戸柵は現在も遺構となっている熊野神社参道脇ですが、北の木戸柵は往復で通過した観音寺前道路の南側だったようで、現在は民家などになっているようでした。
関所がある周辺は城山とも呼ばれていて、頂上部には関所の監視、守備を行う目的の天守台(後の関戸城)が置かれたようです。

霞ノ関歴史

この関所は鎌倉幕府が1213年に起こった和田合戦をきっかけにして築いたのだそうです。
関所の北は多摩川が流れており、北から多摩川を渡って鎌倉街道を南下する敵を迎え撃つ目的があったようです。
1333年、倒幕軍の新田義貞は分倍河原の戦いで北条泰家を破り、その日の内に多摩川を渡ったのだそうです。
敗れて後退した泰家は鎌倉を守る最後の拠点でもあった関所で新田軍を迎え撃ちます。
関戸の戦いと呼ばれる戦いで、泰家は敗れて家臣を失いながらも命からがら鎌倉へ逃げ延びたのだそうです。
しかし戦の後新田軍は休息後鎌倉へ進み、関戸の戦いから6日後に鎌倉幕府は滅亡することになります。

参考

現地説明板
霞ノ関 – wikipedia
関戸の戦い – wikipedia

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