この日は遅めに外出して、小田急小田原線喜多見駅から南東へ1.5kmほどの場所にある慶元寺へ向かいました。
概要
この辺りは喜多見陣屋があったと言われていますが、現在はほとんど遺構は残っていないようです。
喜多見陣屋散策
(左)陣屋跡と言われている、慶元寺山門。
(右)慶元寺参道。
(左)本堂前の門。寺院が運営する幼稚園が隣接しているため、境内にも子供がいました。
(右)門の脇にある説明板。
慶元寺本堂。
(左)墓地内にある三重塔。
(右)同じく墓地内にある、江戸氏喜多見氏墓所。
慶元寺の東にある第六天塚古墳。
この古墳は陣屋の一角で築山として用いられていたとも言われているようです。
喜多見陣屋歴史
この陣屋の主であった喜多見氏は江戸氏の末裔だそうです。
江戸氏
江戸氏は初代である江戸重継が江戸に館を置き、その子である重長が源頼朝に仕えて御家人となって以降江戸を本拠としていました。
しかし室町時代の1368年、同族の河越氏らと共に関東管領上杉憲顕に対し挙兵し武蔵平一揆の乱を起こすも敗れて没落します。
戦国時代に入る頃には本拠を江戸から喜多見へ移し、江戸は太田道灌に明け渡す形となります。
喜多見江戸氏から喜多見氏
喜多見へ移った際に、館が置かれた物と思われます。
喜多見へ移った後の江戸氏は世田谷城主の吉良氏に仕えていたようです。
吉良氏が後北条の傘下になると、江戸氏は後北条氏に仕えます。
1590年、小田原の役にて江戸勝忠は小田原城に籠城していましたが、関東に入った徳川家康に仕え、喜多見500石を安堵されたとのだそうです。
喜多見を安堵された勝忠は姓を喜多見氏と改め、名も勝重としたそうです。
勝忠は関ヶ原合戦や大坂の陣での戦功、堺奉行などでの功績から最終的には2000石まで加増されています。
勝忠没後、家督は次男の重恒が継ぎますが、所領は重恒と三男重勝がそれぞれ1000石ずつ相続したそうです。
重恒には男子がいなかったのか、娘の子である重政が養子に入って相続します。
喜多見藩
1672年、重政は重恒の隠居により喜多見1020石を相続します。
重政は将軍綱吉の寵臣となり、1681年に2000石が加増され、83年にはさらに約6800石が加増されて1万石に達した事で大名となります。
そして1686年にはさらに1万石が加増された事で喜多見藩を立藩します。
その際に陣屋が築かれたそうですが、江戸の直近にも関わらず許可されています。
そして綱吉が生類憐れみの令を執行するにあたり、犬大支配人に任ぜられたそうです。
しかし1689年、重政は突然改易され喜多見藩は廃藩となります。
この改易の理由に関しては諸説あり
- 重政の養父重恒の甥(重勝の子)である重治が妹婿朝岡直国を喧嘩の末刀傷事件で殺害した事により連座。
- 悪法化の兆しがあった生類憐れみの令に関し綱吉に諫言を行ったため
- 同じ綱吉の寵臣である柳沢吉保の陰謀
これらの説がありますが、重治刀傷事件の連座説が定説とされているようです。
改易された重政は桑名藩主松平定重に預けられますが、1693年に餓死したとされています。
重政の嫡男、北見忠政は松前藩士となっている事から改易を以って陣屋は廃止されたと思われます。
また陣屋跡には綱吉が犬小屋を建設したとも言われているようです。
諫言された腹いせと思えなくありませんが、詳細は未確認です。
参考
古城址探訪
酢ろぐ!
江戸氏 – wikipedia
喜多見氏 – wikipedia
喜多見重政 – wikipedia