この日は昼頃に外出して、小田急小田原線鶴巻温泉駅から北西へ1.5kmほどの場所にある三嶋神社へ向かいました。
概要
この三嶋神社周辺は善波氏の館跡と言われています。
ちなみにこの日は代替機でGPSを取りましたが、GPSログのバックアップも出力も忘れて返却したため経路はありません。
善波館散策
(左)南東から見た城域遠景。左手側の林では無く奥が城域です。
(右)少し接近した城域である三嶋神社の遠景。
城域である三嶋神社。
境内下には石碑と善波氏について記した説明板も設置されています。
城域である境内は祭りの準備か法被を着た地域住民の方が本殿内や周辺で作業をしていました。
(左)本殿裏手の登道。
(右)本殿裏手の斜面上にある祠。
本殿北側にある空堀状地形。
本殿裏手に空堀、堀切があるとの事だったので境内周辺を探索して見つけましたが、これが遺構とされている物かは不明です。
三嶋神社境内の枝垂れ桜。
三嶋神社は枝垂れ桜で知られているようで、桜を見に来たと思しき人がちらほらいました。
善波館歴史
この館が築かれた時期ははっきり分からないようですが、現地説明板によれば平安末期の1150年頃には善波善氏が居を構えていたようです。
善氏の子重氏は武勇で知られていたようで、近隣では幡曼荼羅と呼ばれる妖怪を射落としたとか領地を乗っ取った逆臣を討ったといった伝承が残されている模様です。
1254年、重氏の子である又次郎は鎌倉幕府に仕え将軍の警固にあたっていたようです。
鎌倉幕府滅亡後は鎌倉公方に仕え、1349年に勃発した観応の擾乱において、善波有胤は関東管領上杉憲顕に従い、戦功を挙げたようです。
有胤の子と思われる胤久は1368年に武蔵平一揆鎮圧に従い、81年には小山義政の乱を鎮圧に従っていたようです。
1428年、善波憲有は一色時家に従い甲斐の武田信長討伐に参加していた模様です。
戦国時代には善波禰宜が後北条氏の北条氏忠より朱印状を発給されているようです。
善波氏自体は江戸時代初期まで存続していたようですが、善波氏断絶後は一族の飯塚氏が継承して三嶋神社神主を勤めたようですので、善波氏は最後までこの地に居を置いていた物と思われます。
重氏の下駄の跡が残っているとされる「太郎のちから石」