16/11/6 河村城

昨日は昼過ぎに外出し、JR御殿場線山北駅から南へ1kmほどの場所にある河村城址歴史公園へ。

概要

名前の通り河村城があった場所で、遺構も良く残っています。

河村城散策

城域入り口~蔵郭


(左)城域へ向かう道には城跡入り口の石碑があります。
(右)城域遠景。


(左)城域登り道入り口にある案内板。
(右)城域登り道入り口。案内板では主郭付近へ真っ直ぐ登るように見えたので、別の登り道から登ってみる事にしましたが、判断ミスでした。

実際に主郭に至るまでのルートです。


(左)駐車場から付いている別の道を進んでみました。
(右)畑地を過ぎて登っていきます。


しばらく山道を登ってようやく平場らしき物が見えてきました。


(左)出てきたのは想定と違って、城域中ほどにある近藤郭と蔵郭間堀切付近でした。
(左)(右)その付近の郭跡。多地屋敷と呼ばれている郭と思われます。


(左)(中)大庭郭。他の郭と違いはっきりした土塁らしき物が見られます。城内で最も大きい郭である事からもあり、当初はこの郭が主郭だったとも見られているようです。
(右)大庭郭付近にあるPhotopointからの眺め。


(左)大庭郭東側の張出し。現地案内板ではこの辺りが大手口のようです。
(中)張出しの外側、城域大手口付近には図面があります。
(右)その大手口付近から城域を見たもの。


(左)大手口外側の堀切。
(中)大庭郭から、西の近藤郭方面を見ます。
(右)近藤郭内。


(左)近藤郭と蔵郭間の堀切を上から見たもの。下から見た時には分かりにくかったですが、障子堀になっています。
(中)近藤郭側から見た蔵郭。
(右)蔵郭にある説明板。

主郭~茶臼郭


(左)主郭側から見た蔵郭。
(中)蔵郭側から主郭へ向かいます。
(右)主郭の堀切。


(左)主郭内。
(右)主郭南東側。


(左)主郭から馬出郭へ向かう道。既に日没は過ぎていて暗くなって来ています。
(中)馬出郭にある標柱。しかし暗くて郭内は分かりませんでした。
(右)馬出郭から城域の南側を見ます。


(左)主郭にある立派な城跡碑。
(中)主郭から北側の小郭、茶臼郭方面を見下ろします。
(右)小郭と茶臼郭間の堀切を撮った物。

感想

今回は駐車場から真っ直ぐ行けば良かったと思いました。
大庭郭方面へ回り込めそうと思ってのですが、道を間違えたのか整備されてない山道を登って時間を取ってしまったのが残念です。
今回まともに見れたのは主郭から大庭郭など城域東側で、主郭から三方の郭は暗くてまともに見る時間がありませんでしたので、また訪れたい所ですが遠いのでいつになるかと行った所です。

河村城歴史

この城は平安時代末期に藤原秀郷の流れを汲む波多野一族の河村秀高によって築かれたと言われていますが、当時の河村城がこの城を差すのか定かではないようです。
秀高の子義秀は1180年の石橋山合戦に際して平家側に付き、源頼朝に所領を没収されますが、1190年には前年の奥州合戦での功で所領を安堵されます。
南北朝時代になると河村氏は南朝方に付きます。1352年、秀国と秀経は新田義興、脇屋義治らとともに籠城し足利方の軍と戦いますが、翌年落城し秀国、秀経ら河村氏の多くは討死したと言われています。
室町時代後期には扇谷上杉氏家臣で小田原城主である大森氏の持ち城となり、その後後北条氏の手に渡ります。
後北条氏は1570年からの武田氏の侵攻を受け、城を現在の形の改修した模様です。
そして1590年、小田原の役で落城し廃城となったそうです。

参考

現地説明板
神奈川中世城郭図鑑

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