13/11/1 大多喜城

今日は昼ごろに出て、いすみ鉄道大多喜駅から西へ600mほどの場所にある大多喜城へ行ってきました。
約600mというのは直線距離で、実際には倍は歩きますがそれでも大した距離ではありません。

大多喜駅から城の方へ向かって歩くとすぐに大手門跡があります。
本丸からみて線路を挟んだ場所にあるので、駅がある場所も城域(三の丸)の一部だったようです。

市街地化された三の丸から本丸を見ます。
本丸から一段下がった場所が二の丸ですが、現在高校敷地なので進入しませんでした。
そして南側から大きく迂回して裏側から本丸を目指します。

本丸南側を流れる夷隅川を見下ろします。

本丸西側の入り口。
こちらがわには右手側が八幡社出丸。左手側に栗山台砦があったようです。
栗山台砦は今回未探訪です。

八幡社出丸外側の空堀跡。

八幡社出丸跡は現在二の丸公園となっていて、鐘楼などがあります。

八幡社出丸の東側にある堀切らしき地形。

本丸。
模擬天守の博物館分館閉館時間に僅かで間に合いませんでしたので周辺遺構のみを見ます。
右手側(本丸北側)に見える土塁らしき盛り土は遺構かと思いますが、はっきりと分からず。

本丸にある天守。
実際に天守があったのかははっきりしていない模様です。

本丸南側の土塁。
こちらは説明板もあったので本物の遺構のようです。

東側にある土塀。
下は二の丸ですが、学校敷地です。

久々の散策なので比較的有名な所をと思って訪れましたが、遺構は思った程残っていませんでした。移動に時間掛かって、あまり散策出来なかったと言う事もありますが。
しかし本丸周辺から二の丸にかけては要害の地形と言う印象でした。

この城を最初に築いたのは上総武田氏で1521年頃と言われ、当初は小田喜城と呼ばれていました。
上総武田氏は上総全域に勢力を広げており小田喜城もその拠点の1つでしたが、1544年には城主の真里谷朝信が里見氏傘下の正木時茂に討たれて陥落します。
その後小田喜城は時茂が入城し、小田喜正木氏の居城となります。
時茂没後、二人の息子が1564年の第二次国府台合戦で戦死したため、時茂の孫である憲時が当主となります。
しかし憲時は1581年里見氏に反旗を翻しますが、攻撃を受けて落城し憲時も討たれます。
その際に里見義頼次男が正木時茂と名乗って正木氏を継いでいます。

1590年の小田原の役後、里見氏が上総を没収されたため時茂は安房の里見氏の元に向かい、小田喜城には関東入封した徳川家康の重臣である本多忠勝が入城します。小が大に代わり大多喜と改名されたのもこの頃のようです。

その後大多喜城は大多喜藩主の居城として本多氏三代の後も機能して幕末まで用いられます。しかし明治に入った1870年に最後の藩主で大多喜藩知事の松平正質により破却され廃城となりました。

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