この日は夕方前に外出し、幕張本郷駅から南に1.5kmほどの場所にある大須賀山塚へ。
この場所は馬加康胤の首塚とされている場所ですが、それ以前は馬加城の砦であったとも見られているようです。
(左)北側から見た大須賀山。
(中)塚へ向かう道。この道にはお堂の跡などもあったようです。
(右)大須賀山の入り口。
(左)首塚。馬加康胤のものと言われています。
(右)塚がある大須賀山の南側は一段低くなっており、腰曲輪のように見えます。
上にも書いてありますが、この場所は馬加(まくわり)康胤の首塚とされておりその康胤の居城であった馬加城の砦あったとも言われています。
康胤は室町時代中期の人物で千葉氏14代当主満胤の次男で馬加(現在の幕張)に居城を置いたことで馬加と名乗りました。
1455年、鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した事を発端に享徳の乱が勃発し、関東一円を巻き込む戦乱となります。
そして上杉氏の要請で、幕府の追討を受けた成氏は鎌倉を追われて下総の古河に入り古河公方と称します。
千葉氏でも上杉方と成氏方に分かれ、成氏方の康胤は原胤房とともに当時の千葉氏18代当主胤宣を攻めて、これを滅ぼします。
千葉氏嫡流で胤宣の従兄弟に当たる実胤・自胤兄弟は父胤賢や胤宣らと防戦したものの敗れ武蔵へ逃れます(武蔵千葉氏)。
千葉氏嫡流を滅ぼした康胤は千葉氏19代当主となりますが、幕府により美濃より派遣され胤宣らを支援していた東常縁に攻められて馬加を追われた後に討たれたと云われています。ちなみに東氏も千葉氏の一族です。
康胤は上総八幡で討たれたとされていますが、首は居城だった馬加城近くのこの場所に埋められたとされているようです。