この日は昼過ぎに外出して東武東上線霞ヶ関駅の北東1kmほどの場所にある河越氏館跡へ。現在は河越館跡史跡公園として整備されています。
(中)公園へ向かう道。
(右)史跡公園内。堀跡が巡らされています。
(左)井戸跡。
(中)塚状遺構。説明板によれば、祖先を祀る霊廟や納骨堂と言った宗教的意味合いのあるものと考えられているとの事です。
(右)公園内北側から見たもの。
(左)公園北側には館や河越氏に関する歴史や図面が説明板としてまとめられています。
(中)説明板にある河越氏館想像図。複数の区画で成り立っていたようで、さらには戦国時代に山内上杉氏が陣城として用いられたこともあり、堀跡は入り組んでいます。
(右)公園北側の説明板付近から、公園西側の小学校を見た物。境界付近には説明板があり、それによれば境界部分には建物跡があったようです。
(左)公園内から西にある土塁を見る。
(中)公園の西にある土塁は道路沿いに残っています。土塁はところどころ途切れていますが、縦横の二本があります。
(右)公園の南にある常楽寺の門付近には城跡碑があります。また門の前には朽ちた標柱もありました。
この館は平安時代後期に秩父氏の流れを組む葛貫能隆とその嫡男重頼が築いたとされています。能隆は入間郡の葛貫を本拠としていましたが、1155年の大蔵合戦で源義平と同じ秩父一族の畠山重能に敗れて河越に移ったとされています。
1180年、重頼は畠山重忠らの要請で源氏側の衣笠城を落とすも、重忠と共に源頼朝の傘下に加わります。
1184年、重頼は一ノ谷の戦い後に頼朝の命により娘を京に上らせて源義経に嫁がせますが、翌1185年に頼朝、義経兄弟が対立した事が原因で重頼は嫡男重房とともに誅殺されます。しかし河越氏の本領は安堵され、重頼夫人を経て次男重時が継承したようです。
その後河越氏は畠山重忠の乱や承久の乱で幕府軍に加わり、功績を上げることもあったことから、重頼三男の重員は父が剥奪された留守所総検校職に任じられるなど、鎌倉時代後期まで有力御家人のしての地位を維持しました。
鎌倉時代末期。当主貞重が幕府側として六波羅探題防衛にあたって敗れて自害すると、嫡男高重は倒幕側に加わり貢献しました。
南北朝時代の1352年、高重の嫡男で最後の当主である重直は室町幕府の内乱である観応の擾乱にて尊氏側として参戦し、その後武蔵野合戦で室町幕府側として参戦し南朝側と戦います。そして関東管領畠山国清の元で戦功を上げて相模国守護職につきます。
しかし1362年には、かつて観応の擾乱で討伐された足利直義についていた上杉憲顕らが鎌倉公方の元で勢力をつけ、国清や重直は失脚させられ、国清は乱を起こして討伐されます。
1368年、重直は同じ秩父氏の流れを組む高坂重信や江戸氏、高山氏らと共に武蔵平一揆を起こします。平一揆の「平」は秩父氏が平氏であるためです。
鎌倉府、上杉方は幕府を味方につけて河越に出兵、一揆軍は数ヶ月館に籠城して抗戦するも陥落し、重直は南朝方の北畠氏を頼って落ち延び、それによりで河越氏が世にでることは無くなります。
その後は常楽寺の寺域などになっていたようですが、戦国時代には山内上杉氏が扇谷上杉氏の川越城に対抗するために付近に陣城を置いたと言われています。