11/3/5 高井城

P3059817 この日は昼頃外出し関東鉄道常総線新取手駅から北へ1.5kmほどの場所にある高井城址公園へ。

ただ新取手駅から少し北へ進むと大規模な工事が行われていたため思った以上に時間を要しました。

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(左)城域の東にある妙見八幡神社。

(中)城址公園入り口。

(右)高井城主郭を西側から見た物。

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(左)城域西から主郭を向かう道は堀切跡のようです。左手側が主郭、右手側は三郭とあります。

(中)三の郭内。平場ではありますが遺構らしきものは見当たりません。

(右)主郭虎口。土橋や土塁などが見受けられます。

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(左)主郭内。ただ現在の広場は主郭の全てでは無い印象。

(中)主郭と二の郭は複数の腰曲輪で繋がっていたようです。

(右)二の郭内(推定)二の郭は公園として整備されておらず、藪となっています。奥に見える高い場所が主郭です。

P3059855 この城の築城時期ははっきりしていないようですが、信太重国(後に相馬を名乗る)と言う人物によって築かれたという伝承があるようです。

下総相馬氏の本拠である守谷城の支城として用いられ、相馬氏の一族が城主を務めたようです。

戦国時代には相馬氏一族である高井直将が城主を勤めていたとされております。しかし直将の子治胤は古河公方家の後継争いに巻き込まれ、相馬氏当主整胤と対立します。

そんななか整胤が殺害され、若かった整胤には子がいなかったため治胤が相馬氏当主となり治胤の弟胤永が高井城主を継ぎます。また整胤殺害が治胤の手によるものとも言われていますが、この辺りの経緯も含め詳細は分かりません。(調べたいくつかのサイトで食い違いがあるため)

その治胤は元々反北条氏の立場でありましたが、後北条氏に抵抗するものの結局屈して後北条氏傘下となります。

そして小田原の役の際に後北条側だったことから相馬氏は滅亡し、高井城も廃城となります。

しかし治胤の子とされる秀胤が徳川家康に旗本として取り立てられ、高井城最後の城主高井胤永の子胤勝も後に小田原藩主大久保氏に仕えて相馬氏を名乗ったのだそうです。

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