この日は茨城へ一泊二日で出かけるために早めに外出しました。
最初の目的地である笠間駅へは、常磐線友部駅から笠間市の周遊バスで向かったほうが早いとのことでしたが、この時市内で行われていたつつじまつりの影響でバスが大幅に遅れることに。
それでも遅れてきたバスで日動美術館前のバス停で降りたのは友部駅到着から一時間半後。そこから徒歩で城跡に向かいます。
(左)城跡方向へ向かう道、つつじ園が近いためつつじまつりの幟が立っています。
(右)大黒石。鎌倉時代に僧兵の争いで山上から転がり落とされた物だとか。ちなみに三度小銭を投げて一度でも石の穴に入ると願いが叶うと云われているようです。
(左)大手門付近。付近には立派な石碑があります。また現在駐車場となっている場所はかつて千人溜りと呼ばれる曲輪(出丸?)だった場所です。
(中)大手門付近の空堀。結構な深さです。
(右)本丸方面へ向かう道。左側の道は改変されたように見えます。
(左)本丸へ向かう石段。遺構か後世のものか判断に迷うところです。
(中)本丸跡。一つの曲輪としては非常に広大に感じます。また、正面には東屋や石碑がある巨大な土塁も見えます。
(右)土塁上にある八幡櫓跡の石碑。これだけ大規模な土塁であれば櫓もあったでしょう。
(左)本丸の土塁で仕切られた向こう側には石碑や説明板があります。
(中)本丸から天守台へ向かう道。
(右)天守台に向かう途中の土橋。
(左)(中)天守台とその石垣。関東では珍しく石垣が多く用いられています。久々にみた石垣に興奮してしまいました。
(右)天守台頂部にある佐志能神社。この神社の壁は瓦を用いられていて造られています。
この城は鎌倉時代に下野守護宇都宮頼綱の甥で養子である笠間時朝によって築かれたと言われています。それ以来この城は宇都宮氏配下である笠間氏の居城として用いられます。しかし1590年の小田原の役に宇都宮氏が豊臣勢に加わったのに対し、家中で孤立しつつあった当時の笠間氏当主綱家は後北条勢に加わったため、宇都宮氏に攻められて滅亡します。
その後しばらく宇都宮氏家臣が城主を務めていましたが、1601年に松平康重が笠間三万石の藩主としてこの地を治めます。城を現在の形になったのはこの頃とされているようです。
笠間藩は非常に入れ替わりが激しく、松平氏、小笠原氏、永井氏、井上氏、浅野氏、牧野氏などが藩主を務め、もっとも長く務めたのが1747年から明治までの9代124年に渡って治めた牧野氏です。
幕末まで用いられたこの城も廃藩置県、廃城令により廃城となりました。
(左)笠間城主下屋敷跡。現在山麓公園になっている場所は、後に赤穂藩主となる浅野氏が笠間藩主だった時に城下に藩主の御殿が置かれた場所です。
(中)大石邸址。それに際して御殿に程近い場所に家老である大石氏が屋敷を与えられたのだそうです。なお、浅野氏大石氏ともに忠臣蔵から2代もしくは3代前の話しです。
(右)笠間城下町だった場所には所々このような説明板が置かれています。
笠間稲荷神社の境内にいた猫。