この日は昼過ぎから京成線で移動して志津駅で下車。
そこから南に15分ほどの場所にある天御中主神社が目的地の志津城と言われています。
(左)天御中主神社入り口。周囲は住宅地となっています。
(中)鳥居右手側(南側)にある池は水堀跡のようです。
(右)神社境内。奥(北東側)には土塁か櫓台の跡と思われる土壇があり、疱瘡神などが祀られています。
(左)境内にある大ケヤキ。
(中)境内から東側に一段落ち込んだ竹藪。ここも腰曲輪だったりしたのでしょうか。
(右)神社北側を通る道。左手側もかつては遺構があったのだそうですが、宅地化で消えてしまったようです。この道もかつての堀切などの名残なのか、後世切り開かれた物なのかはっきりしません。
わずかに遺構らしき物は残っていますが、現状ではかつての姿を偲ぶのは困難と言えます。
この城は鎌倉時代に築かれた物と考えられ、臼井一族の鹿渡知常の庶子である重朝が志津に城を築いて志津氏を名乗ったと言われています。
その後臼井祐胤(1290-1314)の弟胤氏が重朝より志津氏を継ぎます。
胤氏は祐胤が若くして亡くなると、三歳の嫡男竹若丸の後見人となりますが、自ら臼井氏当主になろうと竹若丸を亡き者にしようとし、竹若丸を匿った岩戸城主岩戸胤安らを攻めて滅ぼしますことで臼井氏の実権を握ります
しかし胤安らによって鎌倉建長寺に預けられて成長し、臼井興胤(行胤)となった竹若丸に臼井城を明け渡しますが、その後も興胤になかなか従わなかったため、臼井氏の軍勢に攻め落とされて胤氏は自害し志津氏も滅亡、城も廃城になったようです。