ようやく読谷遠征のラストです。
今回紹介するのは世界遺産、グスク群として登録された一つの座喜味グスクです。
本来はこのときに回る予定でなかったのですが、他の場所を探すのに手間取って既に五時前です。
それならと近くにあるここによったわけです。
この日は14日、今から二週間ほど前で少し涼しくなり始めた程度でしたが、このうるささは何でしょうか。
案内板を撮ると早速奥へ向かいます。
案内板の類は流石に多めです。
当然ですが公園内は整備されています。森に沿った道を歩くと蝉のうるささが半端でありません。
二の郭の城壁と城門、城壁は森沿いの道からも思う存分見ることが出来ます。
城門の両脇が迫り出しているのは、攻めてきた敵が城門を破ろうとした時に両側から矢を射るためだとか。
城壁、グスクの最東部に当たる部分です。
あと付近には古い階段が・・・今は使われていないようで外に通じる道は雑草で覆われています。
城門のアップと二の郭内。
このグスクは二つの郭からなる比較的シンプルな構造です。
ここは世界遺産に登録された他のグスクと比べて小規模です。それだけ城壁の完成度が重視されたと言うことですが・・・
右の写真は二の郭内にポツンとあった切り株、伐っても良いような木だったんでしょうか。
主郭である一の郭の城門、少し高くなっています。
右の写真は郭内の拝所ですが、手元の本と形が少し違う模様。いくつか石が取り除かれたようですが・・・
この郭では城壁の上に登ることもできます。
中央の写真は建物跡、右の写真は・・・何を思ったか城壁にしがみついていた蝉です。小さな緑色の奴。
周りの景色も撮ってみます。邪魔なものが無く眺めはいいです。
この近くにタカヤマグスクというものもあるはずですが、位置関係からして右の写真の中央にある丘がそれだと思います。帰りに場所だけでも探そうとしましたが見つけられず・・・残念。
このグスクは十五世紀はじめ頃武将護佐丸によって築かれたそうです。護佐丸は北山討伐軍に参加し、その滅亡後しばらく今帰仁グスクにとどまって、その頃このグスクを築いたと言われています。彼は出生した山田グスクを居城としていましたがその石積みもこのグスクを築く際に持ち去ったと言われています。
当時護佐丸は喜界島、与論島、沖永良部島などを治めており、そこからかなりの数の人夫が集められたそうです。おそらく強制的なものと思われ、その辺りでは今でも子供が泣いたりすると「護佐丸がチューンドー(来るぞ)」と言って黙らせるのだとか・・・ナマハゲ並の扱いです。
そうやって築いたこのグスクですが、護佐丸が居していた期間は短く、1440年頃、中山王の命により中城グスクへと移ります。勝連の阿麻和利から首里を守らせるためと言われているようですが、結果1458年「護佐丸・阿麻和利の乱」で命を落とすことになります。
参考文献 沖縄のグスクめぐり(むぎ社)