浦添グスクを紹介しましたので、それにまつわる辺りの歴史を説明させていただきます。どの程度できるかわかりませんが・・・
以前も説明しましたが、沖縄はアマミキヨという神によって開闢されたと伝えられています。久高島より始まったといわれているようですが、その子や子孫は、ミントングスクや玉城グスクに住み着いたといわれているようです。
天孫氏の王統は25代続きましたが、利勇という逆臣によって滅ぼされ、その暴君ぶりに国は荒れ果てます。そんなときに浦添按司樽敦がこれを倒し、浦添グスクにて舜天という名で王位につきます。時は1187年。
舜天は源為朝の息子といわれ、嵐に巻き込まれ今帰仁の運天に漂着したのだとか、この地名も為朝が「運を天に任せる」といったからだそうですが、そんなの誰が書き残して・・・と、とりあえず為朝が大里按司の妹と結ばれて誕生したのが尊敦=舜天というわけですが・・・さて、どれが本当なのでしょうか・・・ちなみに尊敦とその母親は、本土へ向かった為朝を牧港で待っていたそうです、待ち港が転じて・・・と言う事だそうです。
一般的には『利勇』の辺りまでが伝説として解釈されているようですが、中には舜天王統そのものも単なる伝説とする説もあるようです。ここは一般的な説をとることにしますが、為朝伝説についても触れておきます。伝説の概要は述べたとおりですが、そもそも沖縄には古くからの歴史書が無く、沖縄で始めて編纂されたものの、島津支配の下です、そうなりますと、島津氏の意向が反映されているものと見るのはどうでしょうか・・・ありがちな説かと思いますが、島津氏にも源氏の血を引くとする説もあり、『琉球最初の王も、島津も同じ一族の血を引いているのだから』というわけで島津による琉球支配を正当化、あるいは強化もしくはその両方を図ったのではないかと考えることも可能です。
さて、舜天王統に話を戻しますが、舜天は在位50年、72歳まで生きていたそうです。長いですね・・・
舜天王統 1 舜天―2 舜馬順煕―3 義本
義本王の頃飢饉が続きました。王はこれは自分に徳が無いためと考え、当時評判だった英祖を摂政にしたところ、飢饉が収まったため、王は英祖に禅譲しようとし。舜天王統は3代73年で終わります。事実はどうあれ、沖縄での政権交代の言い伝えは、前政権に徳がなくなったから、代わりに政権をとったという、中国式のようです。
舜天王統について意地の悪い見方をすれば、2代目の王は言い伝えのようなものが無く、3代目は王位を譲ったとあるだけです(玉城グスクでの言い伝えがありますが・・・)2代目は頭数あわせで、3代目で王位を譲る、まるで役割分担されたような恣意的なものがあり、舜天王統も単なる伝説として解釈することも可能かもしれませんが、ここはやはり一般的な解釈で行こうと思います。
コメント
ゆっくり何度も読みましたが、ややこしいですね^^;
でも伝説かもしれない部分も含め歴史を知ることは面白いです。
舜天と島津と源氏の関係の説も、ありそうですねぇ。今も昔も政治には陰謀や画策が溢れてるんでしょう。
>まぁきぃさん
沖縄の歴史に関しては、三山統一前の辺りは伝説の要素がかなり強く感じられますね。
例えば、察度王も生誕は明らかな伝説がありますので(後々詳しい説明があるかと思いますが・・・)
自分としては『為朝伝説』は伝説でしかないと思っておりますが、舜天王は存在したと思っています。根拠はありませんが・・・