忘れないうちにこれをやっておきたいと思います。
グスク時代と言いますが、舜天・英祖・察度の三王統もグスク時代に含まれます。
三王統は沖縄本島を全部支配していたわけではなく、せいぜい「最大勢力の按司」と言ったところだったのだろうと思います。『中山王』の位は察度王が明から冊封を受けてから用いたものです。
そのころ本島の南部や北部は浦添按司(中山王)のような大勢力が無く、小競り合いを繰り返していたものと思われます。
南部においては、グスクに関して争いの伝承が多くあります。それらはグスク紹介の際に同時に紹介していますが、時代背景がはっきりせず、せいぜい三山鼎立以前だろうという大雑把なものです。
その中でも、多多名グスクの多田名大主が上グスクの上原按司を滅ぼしたという伝承があり、多多名城主はさらに糸数按司と小競り合いを行ったという話もあります。その糸数グスクの東南にある玉城グスクには察度によって浦添を追われた、英祖王統の西威王が逃げ込んだといわれています、西威王の父である玉城王はかつてこのグスクに居していたため(玉城按司あるいは玉城王子と呼ばれていたとも・・・)このグスクの城主に納まったようですが、察度と結んだ勢力の軍勢により滅ぼされたようです。
玉城グスクはその後南山の手に落ちています。南山はさらに大勢力だった多多名グスクも滅ぼし、勢力を拡大していきます。
南山グスクの南、上里グスクも大きめの勢力だったといわれているようですが、それについては後ほど・・・
北部は南部と比べるとグスクの数が格段に少なく、争いは多くなかったようです。
北部はいくつもの勢力が割拠した印象の南部と異なり、「今帰仁グスク」を巡って争っていたようです。
中北山と呼ばれる系統の今帰仁按司があり、それに対して仕掛けると言ったところです。もちろん今帰仁按司もはじめから大勢力ではなかったでしょうが、それに関する伝承は無いようです。
そうやって多くの勢力が淘汰され、いわゆる「三山時代」へと入っていくわけです。
察度王が明の冊封を受け「中山王」となると、それになら倣ったのか、南山と北山も冊封を行い。「王」の位を受け、明と交易を始めていきます。
南山と北山については別個で説明したいと思いますので次回は「北山の歴史」になるだろうと思います。(理由-南山はややこしいため)
例によっていつになるか分りませんが・・・
参考 沖縄のグスクめぐり(むぎ社)
新 琉球王統史 2 (新星出版)