16/5/21 高坂館

昨日は昼過ぎに外出して、東武東上線高坂駅から北東に500mほどの場所にある高済寺へ。

ここは高坂館があった場所だそうです。

(左)城域である高済寺。
(中)境内にある城山稲荷。下調べした時点では城山稲荷は土塁上にあるはずでしたが。
(右)西側土塁の南端部は削られた跡があります。恐らく道路拡張などがあり、かつて城山稲荷があった櫓台跡が削られたのでしょう。

(左)(中)西側空堀。
(右)土塁から空堀を見下ろします。

(左)土塁上にある、加賀爪氏累代の墓の石碑と説明板。
(中)説明板。
(右)館に居を置いていた加賀爪氏の墓所。この辺りは土塁がもっとも高くなっています。

(左)城域東側を遠目に見ますが、土塁遺構は無いように見えます。
(右)東側空堀跡。

一応高済寺南の住宅街も城域だったようですが、現在宅地化が進み、遺構は見受けられませんでした。

この館は南北朝時代の14世紀に築かれたと見られています。
この頃の城主は豪族の高坂氏と云われているようですが、高坂氏の高坂信重は武蔵平一揆の主要人物だったそうですが、1368年の武蔵平一揆の乱で鎌倉公方、上杉氏らに敗れ他方へ移されたのだそうです。
1562年、後北条氏の北条氏政が武蔵松山城攻撃の為に陣屋を置き、現在残っている遺構はその頃の物と見られているようです。
小田原の役後、関東入封した徳川家康の家臣である加賀爪政尚が3000石を与えられて居を置きます。
政尚の子忠澄は関ヶ原の戦いや大坂の陣などで戦功を挙げ、9500石まで加増されます。
忠澄の子直澄は旗本奴として知られた乱暴者でしたが13000石まで加増され、1668年に高坂藩初代藩主の大名となります。
1681年、直澄の養子で2代目藩主の直清は領地相続に際しての書類不備が原因で旗本の成瀬正章と境界争いを起こして改易され、隠居していた直澄ともども流配となり、これをもって廃城となったようです。

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