礼羽から南へ2kmほど歩くと騎西町の騎西城へ到着します。
(左)北から見た騎西城。
天守風の資料館があり目立ちます。
ちなみに実際に天守は無かった模様です。
(中)資料館脇には水堀を再現したと思われる池があります。
(右)説明板。そもそも資料館が建っている場所も実際は堀だったという事実。
(左)資料館の東、図書館付近にある天神曲輪の標柱。
(中)図書館から県道を隔てた南東側にある土塁。天神曲輪南側の物でこの城で唯一といっても良い遺構。付近の民家と比べてその大きさが分かります。
(右)資料館北にある二の丸跡の標柱。何もありませんが・・・
(左)天神曲輪東の的場跡(標柱)。
(中)大手門跡を城外側から見たもの。
(右)城跡の東側にある前三神社。このときは祭りの準備が行われていました。
この城はもともと関東管領上杉氏方の城でしたが、その後は後北条氏と越後上杉氏の抗争が行われたようです。
1563年に武蔵松山城の救援に間に合わなかった上杉謙信の軍勢によって攻め落とされたのだそうです。
油井城
油井城(油井ケ島城、鐘撞山)は騎西城から南東に2kmほどの場所にあります。
(左)北から見た油井城遠景。周囲は水田が広がっています。
(中)城跡北東の標柱から見たもの。説明板と物見跡と思われる鐘撞山が確認できます。
(右)標柱から城跡へ向かう途中には堀跡が見られます。
(左)説明板。
(右)西側から鐘撞山を見たもの。鐘撞山敷地は私有地らしく敷地の周囲はロープで進入できません。
油井城は騎西城の出城であり、騎西城とともに上杉軍に攻め落とされたのだそうです。鐘撞山の名前の由来は上杉軍の攻撃を受けた際に少ない城兵では太刀打ちできず、騎西城への救援を求めて鐘を鳴らすも既に攻撃を受けていた騎西城もそれどころではなかったという話だそうです。城跡の北東には堀跡が僅かに確認できますが、付近は藪どころではなく確認できるとは僅かな部分でした。