この日は昼過ぎから外出して東武野田線大宮公園駅まで移動し、そこから南東へ1kmの場所にある寿能公園へ。
寿能公園を中心にて寿能城があったのだそうです。
(左)寿能公園の西、産業道路沿いの交番前にある城跡碑。裏には昭和六年と記されています。
(中)寿能公園にある潮田資忠の墓。物見跡に建立されているのだそうです。寿能公園自体は普通の公園です。
(右)公園にある説明用石板。
(左)寿能公園の東にある大宮第二公園の辺りに寿能城の出丸があったのだそうです。
(中)出丸の遺構である土塁跡。
(右)土塁跡を近くから、空堀跡はほとんど分かりません。
寿能城は1560年頃に岩槻城主太田資正の四男潮田資忠が築いたと言われています。
当時後北条氏と対立していた太田氏が本拠地である岩槻城の出城として築いたものですが、資正の嫡男氏資が後北条氏に属すると岩槻城とともに後北条氏の城として機能します。資正は追放されますが、資忠は氏資に従ったのだとか。
1590年の小田原の役で資忠、資勝親子が戦死し城も廃城、江戸時代には城跡もあらかた失われた模様です。さらに戦時中に高射砲が設置されたため城跡は原形をとどめなくなったとの事です。