この日は遅めに外出してJR高崎線北鴻巣駅から南東へ500mほどの場所にある箕田2号墳へ向かいました。
概要
この周辺は平安時代に築かれた箕田館と呼ばれる城館があったとされていますが、平安時代の館という事もあってか遺構は残っていません。
箕田館散策




館を築いたとされる源仕が勧請したのだそうです。


源経基や箕田源氏とも呼ばれる源仕を祖とする一門について記している様です。
箕田館歴史
この館は平安時代、嵯峨源氏の源仕が居館として築いたとされています。
仕は嵯峨天皇の皇子である源融の孫に当たり、武蔵国の国司として下向し箕田郷に居を置いたとされています。そして任期を終えても都に還らずに土着して私営田領主になったと見られている様です。
919年、当時武蔵前権介という立場にあった仕は武蔵国府を襲撃し、官の財物を強奪し官舎を焼き払ったと云います。更に当時の国司高向利春を攻めようとしたとされています。利春は宇多法皇の寵愛を受けた人物で、院の近臣である事を背景に苛政を敷いた結果仕の反撃を受けたと見られている様です。またこの事件は都に急報として届けられたものの、仕に対する処置などは特に伝えられていないとされています。
また箕田氷川八幡神社由緒書によれば、941年に武蔵介として赴任してきた源経基と相談し京の石清水八幡宮から分霊を勧請したとされています。さらに仕はその後経基の下で働き平将門の乱や藤原純友の乱で武功があったと云います。
仕の子である宛は21歳で早逝したそうですが、平良文と争い一騎討ちしたとされている様です。
仕の孫、宛の子である綱は生まれた時既に父が没していたため、仁明源氏である源敦の養子となり母の郷里である摂津国渡辺に移り渡辺姓を名乗った事で渡辺氏の祖となります。
そのため宛の逝去と綱の移住により館は廃棄されたものと思われます。
感想など
箕田2号墳から箕田氷川八幡に掛けての範囲のどこかにあったとされていますが、平安時代の館という事もあって遺構などは残っていません。
館は源仕を祖とする箕田源氏の居館であったそうですが、2代目であり箕田姓を名乗っていたともされている宛が早逝した事で役目を終える事になります。宛の子である綱は3代目とされていますが、間もなく移り渡辺氏の祖となり、摂津源氏の源頼光に仕えて武功を挙げています。宛が早逝しなければ箕田源氏の未来も違っていたかも知れません。
参考
箕田氷川八幡神社由緒書
箕田碑説明板
鴻巣市史 通史編 1
越谷市史 越谷市デジタルアーカイブ – ADEAC
