この日は昼頃に外出して京急久里浜線三崎口駅から南西へ4kmほどの場所に向かいました。
概要
この周辺は戦国時代に三浦氏の本拠だったとされ、その後後北条氏に用いられた三崎城の跡とされています。
三崎城歴史
この城がいつ頃築かれたか不詳ではありませんが、伝承では鎌倉時代に宝治合戦に三浦氏が滅亡した後に相模三浦氏として再興させた三浦一門で佐原城主だった佐原義連の孫、佐原盛時によって築かれたと云われたようです。
再興した三浦氏の本拠として用いられていた様です。
戦国時代の1494年、当時の当主時高はとその子高教は主家である扇谷上杉氏からの養子である高救、義同親子に攻められて落城、時高親子は自害し義同が当主となります。
その後扇谷上杉氏が伊勢宗瑞(北条早雲)と戦う中で三浦氏は後に宗瑞に追い詰められていきます。
1512年、義同は弟の義教と共に支城の住吉城で伊勢軍に対抗するも敗れ義教は討死、義同は本拠へ落ち延びます。
1513年、宗瑞の大軍に包囲され義同は籠城します。扇谷方は援軍を送ろうとするも宗瑞の軍に阻まれます。
1516年、長い籠城戦の末に落城し、義同は自害し子の義意は討死したとされ三浦氏は滅亡します。
三浦氏滅亡後、伊勢氏改め後北条氏によって三浦半島における拠点や水軍拠点として用いられます。
主に三浦半島の対岸に位置する房総半島の里見氏に備えていた様です。
しかし1556年、里見氏の大軍に襲撃され上陸を許して鎌倉まで進軍されたとされています。
1590年、小田原の役後廃城になったとされています。
感想
徒歩5kmほどで到着のはずが目的地設定を誤っていて1km余分に歩く事になりましたが、回り道したルートが幸いして北条湾から城域を見ることが出来ました。
相模三浦氏の本拠地で三浦半島を代表する印象の城ですが、三浦市の中心地に位置することもあって遺構は僅かな上に建物や施設が建て込んでいるため残っている遺構を確認するのも難しい様に感じられました。
ただ城跡碑や説明板は設置されていますし、忠魂碑や慰霊堂がある辺りは比較的面影が残っている印象でした。
参考
現地説明板
神奈川中世城郭図鑑
相模三浦氏 – wikipedia