20/12/29 花園城

この日は昼頃に外出して、東武東上線寄居駅から西北西へ2kmほどの場所にある諏訪神社へ向かいました。

概要

諏訪神社裏の山は花園城の跡で現在も遺構が残っています。

花園城散策

城下~城内

城内へ向かう道は無い様で、主に竪堀から登って行くことになります。

城下の南東にある善導寺は城主だった藤田氏の菩提寺だったそうです。
南から見た城域。
南にある諏訪神社社殿。
道なりに進んで行くと、竪堀に行き当たった為登っていきます。
神社裏手から西に伸びる道を歩いていきます。
登って行くと竪堀が並んでいる場所までたどり着きます。
竪堀が合流した上から見たもの。
竪堀から二郭と三郭間の空堀へ移動します。

城内

二郭、三郭間の堀切から三郭に上がり、そこから西の主郭方面へ向かいます。
三郭の東にある東郭は後で見る予定でした。

三郭内。
三郭南側の空堀跡。

三郭から二郭を見ます。
二郭と三郭間の堀切。
二郭内。
二郭内の土塁には石積みが見受けられます。
主郭、二郭間の堀切。
主郭から堀切と土橋を見下ろします。
主郭内。
郭内は南北の二段に分かれている様です。
主郭にある城跡碑。
主郭西側の横堀。
主郭南側を見ます。
主郭西側の腰郭を見たもの。
腰郭は数段になっています。
少し降りた腰郭から西を見ます。

下山

本来は東郭まで行ってから降りる予定でしたが、西側腰郭から離れた直後に滑って膝をひねる負傷をしてしまい、やむなく降りる羽目になりました。

三郭から東郭との堀切を見下ろします。
何とかここまで来ましたが、痛めた足では無理と判断しました。
三郭から一旦南に降りて、東郭寄りの竪堀から降りていきます。
竪堀を降りていきます。
傾斜が大きい所は尻で滑って枯れ葉に塗れたりします。

花園城歴史

この城は武蔵七党猪俣党の猪俣政行によって築かれたと言われています。
平安末期の頃で、1155年の事とも言われているようです。当然現在残っている様な城では無かったと思われます。
政行はこの城に拠って藤田氏と称し、その後しばらく藤田氏代々の居城だったと思われます。

政行や子の行康はいわゆる源平合戦では源氏方に参戦し戦功を上げた様です。
行康は1184年の一の谷合戦で討ち死にしたそうですが、子の能国が跡を継いで戦後は御家人になったとされています。しかしその後藤田氏の動向は定かで無い様です。
戦国時代、当時の藤田康邦は山内上杉氏に従い、天神山城を本拠にしていたそうで、その支城になっていたと思われます。しかし山内上杉氏が敗れると後北条氏に従い、北条氏康の四男である氏邦を婿養子にして家督を譲ります。
氏邦は本拠を鉢形城に置いたため、その支城として用いられたと思われます。
1590年、小田原の役に際して鉢形城と共に落城し廃城になったと見られている様ですが、詳細は分かっていない様です。

感想

先述の通り、整備された道は無さそうなので竪堀を登っての進入でした。
当然傾斜のキツい部分はありますが、それよりも地面を覆う枯れ葉が滑りやすいのが問題でした。
遺構としては竪堀、堀切が主でどちらも見応えがあります。
西や南に展開している腰郭も結構な規模があるようですが、元々腰郭まで全部見るのは厳しいかと思っていました。
しかし途中で平坦な場所に関わらず枯れ葉で滑ってしまったため、予定していた東郭外側の堀切まで到達するのを断念せざるを得ませんでした。

参考

余湖くんのホームページ

藤田氏 – 武家家伝

藤田氏 – wikipedia

日本城郭全集4

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