昨日は昼頃に外出して、東武伊勢崎線足利市駅から南東へ1.5kmほどの場所にある赤城神社へ向かいました。
概要
岩井山城散策
北西から見た城域遠景と渡良瀬川。
こうやって見ると要害という雰囲気がします。
(左)東側からの城域入り口。
(中)説明板。勧農城という別名で表記されている事もありますが、ここは説明板に従います。
(右)城域と道路の間に空掘に見える地形が見えますが、遺構では無さそうです。
(左)城域に入った所の広い曲輪。赤城神社境内となっています。
(中)赤城神社社殿は一段高くなっていて、脇に道があります。
(右)社殿脇の道。
(左)道を南下して行きます。
(右)道を進むと建物が見えてきます。
(左)城域南側にある乳房不動尊。
(右)不動尊の東側にある平場。
(左)藪が多く道が分かり難くかったので、神社社殿裏手付近から直登してたどり着いた城域最高所。物見台跡と思われますが酷い藪です。
(中)その南側の本曲輪内。
(右)本曲輪西側の土塁。本曲輪付近を通る通路と化しています。
(左)本曲輪南側の腰曲輪。
(中)藪漕ぎしながら本曲輪の北側尾根へ向かいます。
(右)北側尾根には石碑が建っていますが、城に関する物ではありませんでした。尾根沿いに真っ直ぐ降りると城域入り口付近に出ます。
岩井山城歴史
この城は1466年、足利長尾氏の長尾景人によって築かれたと言われています。
景人は山内上杉氏家臣で元々鎌倉長尾氏と呼ばれる家系でしたが、戦功を挙げ室町幕府より将軍家ゆかりの土地である足利の代官に任命されます。
これにより景人の系統は足利長尾氏と呼ばれるます。
関東は享徳の乱の最中で、下野国は幕府や山内、扇谷両上杉氏と対立していた古河公方方の勢力圏で、この城は下野国に於ける上杉方唯一の拠点でした。
その為最前線であったこの城は攻撃を受けることもあり、1471年古河公方方の攻撃を受けた際に景人は討死したようです。
1487年、景人の息子景長の頃、山内、扇谷両上杉氏が緊張関係になる中、景人の弟で景長の後見人だった房清が扇谷方に通じていた為山内方の攻撃を受けます。これにより長享の乱と呼ばれる両上杉氏の戦いが勃発します。
1512年頃には景長は足利城に居を移し、その支城となったようです。
1590年、小田原の役当時は足利長尾氏は後北条氏に臣従しておりその為後北条方につきます。その為戦後所領を没取され城も廃城となりました。
感想など
全体的に藪がひどく全体的な探索は困難でした。
もっとも曇天で蒸し暑く、藪の中蚊に集られ集中出来なかったと言う事もありそうです。
また暗い場所も多かった為か撮った写真の半分は手ブレしている有様でした。
次足利を訪れるとしても足利氏館などへ行くと思われますので、再訪は微妙な所です。
一応足利氏館は少し見てきましたが・・・
参考
現地説明板
余湖くんのホームページ