この日は遅めに外出してニューシャトル内宿駅から北西に1km強の場所に向かいました。
概要
この場所は鎌倉時代の人物である倉田孫四郎の館とされている様ですが、遺構の探索などは難しい印象を受けます。
倉田孫四郎館探索






倉田孫四郎館歴史
この館は鎌倉時代、倉田孫四郎基行によって築かれたと伝えられています。
基行は武蔵七党児玉党の祖である児玉惟行の弟ともいわれていますが、その名は主に越生町の法恩寺の由緒に見えるのみで、確実な史料には確認出来ない様に見えます。
法恩寺の縁起によれば、越生氏一族の倉田基行は天竺僧の導きによって古井戸から行基ゆかりとされる仏像を発見し、妻とともにこれを祀って出家した人物と伝えられています。さらに、その信仰の篤さは源頼朝の感銘を呼び、寺院再興の契機となったとされています。
また、近世以降の史料や地域史においても、基行は「倉田孫四郎基行」として言及され、倉田の地に退隠したのち法恩寺を再興した人物として位置付けられています。
しかしながら、「桶川市史」においては当館を基行の居館とする裏付けは確認されておらず、館跡と基行との直接的な関係は明らかではありません。
このことから、倉田という地名に由来する「倉田孫四郎の館」という伝承と、法恩寺に伝わる倉田基行の人物像とが後世に結び付けられ、「倉田孫四郎基行の館」とする理解が形成された可能性が考えられそうです。
感想など
倉田地区の北端付近に位置し、南側に宅地が並ぶ雑木林一帯が城域とされています。
雑木林は相応の規模を有しますが、藪化が進んでおり全貌を把握するのは難しくなっています。城域北縁部には溝状の地形も見られますが、遺構であるかははっきりしません。城域北西の社が建つ平場が最も館跡らしい地点と言えます。
仮に伝承の通り基行の館であったとすれば鎌倉時代の館となりますが、その場合は簡素な構造であった可能性も考えられます。
一方で、現状では基行との直接的な関連を示す根拠は乏しく、館の性格についてはなお検討の余地があると言えます。
参考
桶川市史 第3巻 (古代・中世資料編)
姓氏家系大辞典 2
内乱史研究 (15)
法恩寺(越生町公式サイト)
