25/7/12 佐貫館

この日は昼過ぎに外出して、東武伊勢崎線から西へ900m強の場所にある不動尊へ向かいました。

概要

この不動尊を北西端にして佐貫氏の居館があったとされていますが、明確な遺構は見受けられません。

佐貫館散策

佐貫館歴史

この館は平安時代末期、佐貫資綱によって築かれ、その子嗣綱が赤岩城を築いて居を移ったため廃止されたと云われている様です。
資綱は奈良時代の公卿である藤原小黒麻呂の末裔と云われている様ですが、詳細は定かで無いようです。ただ資料では資綱は小黒麻呂の子や孫となっている事が多く、資綱が居館として築いたのであれば平安末期では無く奈良時代か平安初期となるのかも知れません。
その一方で、館林市誌に引用されている「佐貫之城主代々相続由来」ではて藤原秀郷の5世孫で、藤姓足利氏初代である足利成行の弟とされている佐貫行房が佐貫氏初代としているため、藤原氏の流れを汲むという点では共通するものの、時期や系統が異なる佐貫氏がそれぞれ居を置いたと推測する事も出来ます。
行房の系統も館に居を置いた時期は定かでありません。ただ築城時期とされる平安末期の人物であれば源頼朝に仕えた広綱ですが、詳細は不明です。

感想

現在明確な遺構は見受けられません。
城域について城郭大系では不動尊を北西端にして、東西400m南北200m弱の範囲が図で示されていますが、平安末期に築かれた館跡としては明らかに大規模であるため、本来の館跡としては明治期の迅速地図を見るに不動尊とその東側に隣接した耕作地の区画が考えられます。ただこの区画は現在県道で分断されていて分かり難い事もあるため、あくまで迅速地図で見た印象によるものです。
それ以外の区画が実際に城域なのか確かでありませんが、後世に再利用されて拡張された可能性があるのかも知れません。

参考

日本城郭大系 第4巻

館林市誌 [第2] (歴史篇)

館林郷土叢書 第5輯

佐貫の庄の歴史 – 箕輪城と上州戦国史

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