この日は昼頃に外出して、JR八高線群馬藤岡駅から西へ2.2kmほどの場所に向かいました。
概要
千手寺を中心にして東西に中大塚城が築かれていたとされています。
現在は西側に遺構が良く残っています。
中大塚城散策
西郭~千手寺
東郭
中大塚城歴史
この城館が築かれた時期は定かではありませんが、鎌倉時代末期頃までに大塚郷の地頭職を勤めていた小林氏によって築かれた様です。
小林氏は秩父氏の流れを汲み高山御厨を根拠地としていた高山氏の支流とされ、高山氏初代の高山重遠の次子重幸を祖としています。
1189年に小林氏は高山氏とともに奥州合戦に参戦している様です。
1334年、当時の城主重政が新田義貞から大塚郷の地頭職を安堵された事から、この頃には当城に居を置いていたと見られています。
室町時代に入ると小林氏は山内上杉氏に仕える事になり、度々戦に出陣して戦功を挙げたり南西4.5kmほどの場所に築かれた山内上杉氏の居城平井城の在番を務めたりした様です。
1565年、武田信玄が上野に侵攻し、北5kmほどの場所にある倉賀野城が落とされると武田方に降り仕えたと見られます。
しかし千手寺境内に建っているという碑文(確認していません)には天文10年(1541年)に重義が戦没しその子と思われる衛重が土着帰農したと記載されているそうです。
しかし1541年以後にも山内上杉氏、武田氏、滝川一益とのやり取りが残されていて矛盾するように感じます。ただこの碑文自体が大正時代に建てられた様で、口碑で相違が出てしまった可能性があります。
天文10年では無く、武田氏が滅亡し滝川一益が上野に進出した天正10年(1582年)だとすれば矛盾はありません。
小林氏は武田氏に対して義理立てしてか、一益に対して出仕しないとしたためそのまま帰農したのかも知れません。
しかし城館自体はその後も衛重以降小林家の住居として用いられ現在に至っている様です。
感想
城というよりは複数の郭を持った館といった印象の城です。
一般的に城域とされているのは西郭の様ですが、そちらは内部には進入出来ないものの周囲の遺構が良く残っています。
参考
現地説明板
群馬県史 通史編 3 (中世)
群馬県史 通史編 10 (年表・索引) 本編
群馬県立文書館収蔵文書目録 3 (多野・藤岡地区諸家文書 1)
中世関東の要、平井城と関東管領上杉氏の盛衰 – 藤岡デジタル博物館