24/12/8 笹下城

この日は遅めに外出して、京急本線屏風浦駅から南西に1.2kmの場所にある成就院へ向かいました。

概要

この周辺は後北条氏家臣の間宮氏によって築かれた笹下城があったそうですが、現在は明確な遺構は見受けられません。

笹下城散策

その東側空堀跡を北から見たもの。

笹下城歴史

この城は戦国時代、後北条氏家臣の間宮信元によって築かれたと云われています。
間宮氏は宇多源氏佐々木氏の末裔とされ、信元の父である信盛の頃、伊豆国に移り伊勢宗瑞(北条早雲)に仕えたと云われている様です。その後北条氏綱の代になって武蔵国に采地を与えられたそうです。
ただ信元は平時の居館として、南東400mほどの場所、現在の御霊神社付近に陣屋を置いていたそうです。また周辺に杉田陣屋、森陣屋、氷取沢陣屋などを置き、これらは間宮氏一族が守っていた様です。
1590年、信元の子である康俊の時に小田原の役が勃発し、康俊は前哨戦である山中城の戦いで討たれ、子の康信も箱根で討たれたため孫の直元が跡を継ぎます。
小田原開城後、直元は関東入封した徳川家康に1000石の旗本として召し出されます。
この頃は陣屋のみに居を置いていたのでは無いかと思われます。
1614年、大阪冬の陣に出陣した直元は討たれ、子の忠次が継ぎます。忠次の後は長子正信、弟の正次が正信の養子となって継いでいった様です。
そして寛文年間に正次は下総国印旛郡に転封となったことで廃止となった様です。

感想

調査が行われる前に宅地開発が行われた事で湮滅してしまった様で、詳細は構造は明らかで無く明確な遺構は見受けられません。「日本城郭全集」には佐々木城として図が記されていますが、成就院との位置関係は明確で無いように感じられます。
主郭部は成就院の南にあったと見られていますが、現在はそれを偲ぶものは見受けられません。
ただ成就院や主郭部の東にあったとされる空堀跡は現在は大規模なものに見えるものの、宅地造成工事で改変されている可能性もありそうです。

参考

現地石碑 (笹下城の空堀跡)

日本城郭全集 4

磯子の史話

こうなん道ばたの風土記

港南の歴史

スポンサーリンク
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください