この日は昼頃に外出し、JR宇都宮線古河駅から北へ2.6kmほどの場所に向かいました。
概要
「のぎ水辺の楽校」に隣接しているこの場所は野木城の跡とされていますが、明確な遺構は見受けられません。
野木城散策
野木城歴史
この城の歴史について詳細は明らかでは無い様です。
鎌倉時代に野木時基という武士がおり、彼が城主でなかったと見られている様ですが、時基と城の関係については定かで無いと感じられました。時基の一族は「姓氏家系大辞典」によれば武蔵国比企郡野木邑発祥とありますし、こちらは通常野本とされていて、埼玉県東松山市の野本館城主とされています。その一方、小山氏の一門である下河辺政義の子である時員が下野国寒川郡野木邑より野木を称したとされています。しかし時員も時基の父である基員の養子となった事から時員も一般には野本氏として知られており野木に居を置いていたのか定かでありません。
ちなみに政義は1183年に野木で起こった野木宮合戦で小山朝政に従って源頼朝方として参戦している様です。
また小山氏の臣が在城していたという説もある様ですが、これについても疑問視されている様です。
感想
大雑把には南は清水谷、北は稲荷谷に挟まれ、それは西側で合流して思川に続くといった地勢で要害性の高い地勢であると感じられました。
現在は清水谷が隣接する水辺の楽校に組み込まれていて橋が掛けられています。
そんな城域の外周は遊歩道となっていますので風景を楽しみながらの散策が出来ます。
ただ城域内側は耕作地となっています。
地形のみが面影を留め遺構は見受けられない当城ですが、現地説明板によれば堀切という地名が残っているようなのでかつては堀切なども備えた城であったと思われます。
ただ城域入口付近の祠が祀られている盛り土は土塁の名残に見えましたが、道路工事の影響でそうなったのかも知れません。
参考
現地説明板
のぎ水辺の楽校 フライヤー
野木の歴史
姓氏家系大辞典 第5巻
東松山市の歴史 上巻