阿川氏屋敷があったとされる八條殿社古墳周辺から北へ300mほどの場所にある八条八幡神社へ向かいました。
概要
この八条八幡神社周辺は平安時代末期から鎌倉時代初頭頃に掛けて八條郷地頭となった八条氏の居館が置かれたと見られているようですが、遺構は見受けられません。
八条氏館散策
八条氏館歴史
この館は平安時代末期から鎌倉時代に掛けての人物である八条光平(光衡)が居を置いた事に始まる様です。
光平は武蔵七党野与党の流れを汲む渋江光衡が八条の地頭職になり居を置いた事で八条と名乗ったと見られています。八条郷は山内政宣が所領としていた様ですが、政宣は1213年の和田合戦に関係した事で失脚して葛西重清に与えられたとされています。
一方で光平は和田方に関係無かったのか、地頭職を安堵されたとされています。
その後の八条氏について定かでは無いものの、室町時代の1504年に八条惟茂が近隣の向畑城主である新方頼希と抗争し一度は向畑城を落として支配下にしたものの、1521年に頼希の兄である高賢上人に敗れたという伝承がある様です。
感想
阿川氏屋敷から帰ろうとした時にgooglemapを見て気付いて訪れました。
八條八幡神社付近と思って訪れましたが、比定地はもう少し南側の様です。もっとも現在は面影も無く詳細な場所が明らかで無いようですが。
館跡付近に建っている八條八幡神社を訪れましたが、館跡を示す物はありませんでした。
しかし境内では関係者の方が片付けをしていて慌ただしいものの、地域の重要な神社という印象でした。
ただこの時は知らなかったとはいえ、国指定文化財の本殿を見損ねたのは残念です。
参考
八潮市史 通史編 1
岩槻市史 通史編
八潮の民俗資料 2 (八潮市史調査報告書 ; 5)
姓氏家系大辞典 第5巻
六ヶ村栄広山由緒著聞書 – 越谷市デジタルアーカイブ(ADEAC)