この日は昼過ぎに外出して、JR武蔵野線吉川駅から南南西へ2.6kmほどの場所にある八條殿社古墳付近へ向かいました。
概要
この古墳付近は戦国時代、岩槻太田氏に仕えた阿川氏が居を置いたと云われていますが明確な遺構は見受けられません。
阿川氏屋敷散策
阿川氏屋敷歴史
この屋敷は1590年に起きた小田原の役後、岩槻城主北条氏房に仕えていた阿川康久が落ち延びて居を置いたと云われているそうです。
阿川氏は元々中国地方の大名である大内氏に仕えていて、室町時代中期に当たる大内教弘やその跡を継いだ政弘に仕えた阿川盛康は戦功挙げて長門国三隅庄に所領を得、その後も戦功に加増されていた様です。
その子孫である隆康は大内義隆に侍大将として仕えていた様ですが、1551年に起きた大寧寺の変に際して冷泉隆豊への使いとなるもその後出奔したそうですが、その後陶氏の傀儡として当主になった義長に小座敷衆として仕えたとも云われている様です。
そしてその一族である康長あるいはその子である康久が関東へ落ち延びて岩槻城主太田氏へ仕えたとされています。ちなみに康長も1543年に尼子氏との戦に際して矢傷を負ったと記録されている様です。しかし大内氏に仕えた阿川氏の人物は幾人も記録に登場しているものの、その詳しい系譜は定かでない様です。
そして康長あるいは康久が関東まで移ったのは「八潮市史」では隆康の出奔が原因としていますが、大内氏が没落したという面もあるのかも知れません。
その後は先述の様に後北条氏没落によって康久はこの地に移り、おそらく土着したものと思われますが、戦後東大資料編纂所の職員が調査のため訪れた際には廃絶のためか無くなっていた様ですので、いつまで用いられていたのか不明です。
感想
阿川氏の屋敷があったとされる場所は先述の通り、八條殿社古墳が残る辺りとされています。
陣屋などだと古墳を物見とするためか城域に取り込む例がありますが、この屋敷でもそういった意図があったのでしょうか。
そして下調べした際に古墳の前面は畑地という事でしたが、現地で見てみると住宅地内でフェンスに囲まれた畑となっていて私有地という雰囲気が非常に強くなっています。実際の所は不明ですが。
そんな畑の奥に古墳の説明板が立っているのが見えますが、個人的には非常に入りづらく結局奥まで踏み込む事は出来ませんでした。
そして堀の名残と見られている水路も細く、遺構の名残としても物足りない感はあります。
参考
八潮市史 通史編 1
八潮市史 史料編 古代・中世
姓氏家系大辞典 1
大内氏実録