この日は少し遅めに外出して、JR常磐線北小金駅から北西へ1kmほどの場所にある広徳寺へ向かいました。
ちなみに最寄りは流山鉄道小金城趾駅ですが、少し歩きたいという理由でこちらを選んでいます。
概要
この場所は小金城の支城だったという中金杉城と呼ばれている城郭があったと見る向きがありますが、その実在、及び比定地も確実ではありません。
中金杉城散策
城域とされる広徳寺を南西から見たもの。
正面に見える、南側を通り抜ける道路は昭和40年代に城域を切り開いたものと思われます。
南側から見た広徳寺山門。
広徳寺境内。
広徳寺本堂。
山門入って左手側に設置されている高城氏墓所の説明板。
境内西側の高所に建っている高城氏の墓所。
高城氏墓所の脇から南側を見ます。
南には小金城が建っていました。左手側に見えるのがその残片である大谷口歴史公園です。
境内南西、少し下がった位置に建っている弁財天の祠。
高城氏が根木内城から小金城に居を移した際に移したとされている様です。
中金杉城歴史
先述した様に広徳寺が建っている場所は高城氏が居城として築いた小金城の支城があったと見られています。広徳寺自体は1462年に栗ヶ沢に創建されたそうですが、高城氏が小金城に移った事に伴って現在の場所に移転した様です。
1537年頃に小金城が築かれ高城胤吉、胤辰親子が根木内城から居を移したとされていて、その後に出城として築かれたものと見られています。
1590年、胤辰の子である胤則の頃に起こった小田原の役に際して、小金城は浅野長政らに攻められ開城したそうです。その後徳川家康が関東入封するとその息子の武田信吉が3万石で小金城に入城するも1593年に佐倉へ移された事で小金城は廃城となりますが、出城である中金杉城がそれまで用いられていたか定かで無く、1590年の開城時点で廃城になった可能性が高いと思われます。
感想
小金城の北側に隣接するように存在する高台の南端部にあったと見られている城です。
ただ過去の地形図や航空写真から、現在の境内南西部からさらに南へ少し張り出す様にして伸びている地勢が確認出来ます。
城の実在について定かで無いものの、広徳寺付近が城域だった場合考えられる可能性としては
- 広徳寺を守るための城塞施設。
- 広徳寺の南に位置していた小金城金杉口を攻める敵を叩くか警戒するための支城。
- 双方の性質を合わせたもの。
以上の3つが考えられるのでは無いかと思われます。
参考
現地説明板(広徳寺の由来、高城公の墓所、弁財天)
東葛の中世城郭