この日は午前の内に外出して、JR高崎線神保原駅から北西へ1.8kmほどの場所にある陽雲寺へ向かいました。
概要
この場所は金窪南城の跡とされ、遺構がある程度残っています。
金窪南城散策
金窪南城歴史、感想
この城は室町時代の1492年、大畠昌広によって金窪城の出城として築かれた様です。
金窪城自体は平安時代に築かれたとされています。南北朝時代には南朝方の新田義貞が配下の畑時能を金窪城に配したとされ、元々陽雲寺が建っていたと思われる南城周辺には供養祠や首塚とされる塚など時能に関する史跡が存在しています。
南城がいつ頃まで用いられていたのかは定かではありません。
ただ1582年の神流川の戦いに際して滝川一益の軍によって金窪城が攻められた際に陽雲寺が炎上したと言われている様です。
1590年に後北条氏が滅亡した後、徳川家康が関東入封すると武田信玄の甥である河窪信俊が金窪の領主となりますが、信俊の養母で信玄の正室である三条の方も一緒に入り陽雲寺境内に居を置いたと云われていますが、三条の方は1570年没とされている事から伝承の域を出ないと思われます。
この城が城郭として用いられた期間はそれほど長くないと思われます。
しかし陽雲寺が建っていたという場所故か破壊を免れて金窪城と比べて明瞭な遺構を残しています。
参考
現地説明板
陽雲寺 (埼玉県上里町) – wikipedia