19/12/30 高麗山城

この日は昼過ぎに外出して、JR東海道線大磯駅から北東へ1.5kmほどの場所にある高麗山へ向かいました。

概要

この高麗山の山頂は高麗山城の主郭だったとされ、周辺には山城の遺構が残されているそうです。

高麗山城散策


かつての東海道である国道1号線から見た高来神社と城域。

高来神社~高麗山登山


高来神社拝殿。
周囲は正月の準備がなされています。

(左)拝殿裏手にある登山口。
(右)案内図、ショートカットコースかと思い「男坂」を選択したが予想以上の難コースでした。

男坂の登山道。
途中よじ登らないと厳しい場所もあったりし、下りは絶対「女坂」にしようと決めました。

(左)男坂と女坂が合流した先の平場。遺構ではなさそうです。
(右)更に登りますが、一段高くなった所にスペースがあります。

山頂へ向かう石段。
山頂についたのは思ったより遅くなり、ほぼ日没時間でした。

高麗山城城域


(左)主郭跡である山頂は大堂とも呼ばれ、かつて高麗山寺があったそうです。
(右)本堂跡。

主郭から西へ伸びる尾根道。

(左)主郭西、主郭から見て一本目の堀切。
(右)堀切を横から見たもの。

(左)二本目の堀切跡。現在では痕跡程度です。
(右)堀切跡から北を見ます。
最も外側にある大堀切は暗くなってきていた事もあり断念しました。
また帰りながら東側の郭へ向かおうとしたもののやはり暗くなって来ていたため断念しました。

高麗山城歴史

1438年、関東公方足利持氏は関東管領上杉氏と室町幕府に対して挙兵し、永享の乱が勃発します。
その際、関東管領上杉持房の軍が陣を置いて持氏の軍を破ったとされているようです。
この時陣城として築かれたと見られているようです。
1510年、相模に進出した伊勢宗瑞(北条早雲)は扇谷上杉氏の権現山城主上田政盛を調略して挙兵させ、自らは高麗山城を取り立てて後詰めとして滞在していたようです。
しかし政盛は扇谷、山内両上杉氏に敗れ高麗山城と住吉要害も扇谷方の三浦義同によって落とされて小田原城に肉薄されたといいます。
その為宗瑞は扇谷上杉氏と和睦する事になります。
城はその後、後北条氏の狼煙台として用いられていたようですが、1560年に小田原城を包囲した上杉謙信が陣を置いたと言われているようです。

感想

調べてみるといかにも山城といった遺構が残されているようです。
しかし登山で手間取ったため、あまり見て回ることが出来なかった事が悔やまれます。
女坂をサクサク登って行ったほうが意外と早かったのかも知れませんが、男坂の厳しさを登りで知ったからこそ下りで使わずに済んだとも言えますのでどちらが良かったとも言えなさそうです。

参考

神奈川中世城郭図鑑
イソタビドットコム
余湖くんのホームページ

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