17/11/12 大庭城

この日は昼頃に外出して、小田急江ノ島線善行駅から西へ2kmほどの場所にある大庭城址公園へ向かいました。

概要


ここは名前の通り大庭城の跡です。
以前訪れた事があり、その時は公園が閉門していて断念しましたが、今回は余裕を持って訪れました。

大庭城散策


(左)東側から見た城域遠景。
(右)西側からに回り込んでからの公園入口。

(左)城址公園内の道。この道が往時からの物か分かりません。仮に以前から用いられていた道としても大手は別にあったと思われます。
(右)道を進むと三の曲輪内に進入します。

(左)三の曲輪内。
(右)三の曲輪北側の外郭部と思われる辺り。外郭は僅かな部分を残して削られてしまっています。

(左)三の曲輪内にある説明板。
(右)説明板裏手にあるニの曲輪空堀跡。

(左)ニの曲輪内。
(右)ニの曲輪内の土塁。

(左)本曲輪虎口。
(右)本曲輪虎口左手側(東側)の空堀跡。

(左)本曲輪内。
(右)本曲輪内にある建物跡。

本曲輪南側横堀。

(左)本曲輪南側堀切。堀切を隔てて小曲輪があります。
(右)本曲輪南側小曲輪内。

(左)横堀は本曲輪の西側から南側に掛けて通っています。
(右)横堀の土塁上から外側を見下ろしますと外側の横堀らしきものが見えます。ニの曲輪と本曲輪の西側は二重の横堀で守っていたようです。

(左)帰り際に探して到達した、三の曲輪と外郭間の空堀跡。残っている部分は僅かなようです。
(右)空堀跡をやや見下ろす形で撮ろうとした物。

大庭城歴史

この城は平安時代末期に鎌倉氏の一族である大庭景宗によって築かれ大庭氏の居館であったと言い伝えられているそうです。
景宗の子である景義、景親は源平合戦に於いて敵味方に別れます。嫡男である景義は源頼朝に仕え、弟の景親は平氏側に参戦し1180年の石橋山の戦いで頼朝軍を破りますが、同年、富士川の戦いに際して平氏軍に合流しようとするも断念し平氏軍敗走後に降伏して処刑されています。
景義は茅ヶ崎市の懐島城に居を置いていたと言われており、大庭氏の居館がいつ頃まで利用されていたのか不詳ですが、景親が拠点として用いたとも云われているようです。
景義とその嫡男景兼は鎌倉幕府の御家人となりますが、1213年の和田合戦後没落したようです。
ただ現在まで残っている城は室町時代中頃、扇谷上杉氏の家宰である太田道灌に依るものと見られています。
そして扇谷上杉氏の拠点として用いられていましたが、1512年頃北条早雲の手により陥落し、後北条氏の城となります。
ただ1513年頃玉縄城が築かれると重要性は下がったためか詳細は伝わっていないようです。
そして1590年の小田原の役後廃城になったと見られています。

感想

現在は城址公園として整備され散策はし易いですが、遺構に関する案内などは多くなくやや分かり難い印象でした。
管理事務所などに行けば違ったかも知れませんが、到着した時には閉まっていましたので仕方無いと言った所でしょう。

参考

神奈川中世城郭図鑑

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