この日は午前のうちに外出しました。
概要
そして東武伊勢崎線韮川駅から北西4kmほどの場所にある金山自然公園へ向かいました。
ここは金山城の跡があります。
ちなみに途中から曲がりくねった山道で実際の歩行距離は5km近くになり、その内後半2kmほどは上り道でバスもありません。
金山城散策
城域まで
(左)城域の麓にある比丘尼坂筋違城門跡。かつて石塁、空堀がここまで存在し、筋違いの城門があったのだそうです。戦後、それらを切り開いて通したのが現在の松風峠だそうです。
(中)説明板の脇から、結構な斜面への上り道らしき物があるように見えます。しかしここは先を急ぐ事にしました。
(右)資料などが貰えるかと思い、ガイダンス施設へ寄って見た所休館日でした。カレンダー上は連休の合間の月曜でしたから仕方ありません。
(左)ガイダンス施設から城域へ向かう途中、車道から外れた場所に立つ城跡碑。
(中)山道は車道と別に歩行者が歩ける道があり、ある程度はショートカットする事が出来ます。
(右)城域付近の上り道。
本城南
(左)山道を登ると本城域南端へ到達しました。
(中)本城南端の説明板。
(右)説明板裏側には石垣が見えます。
本城西(西矢倉台付近)
(左)城域西端からの進入路。
(中)堀切とそれにかかる木橋が見えます。
(左)西矢倉台西堀切。城域で最も西にある堀切だそうです。
(左)西矢倉台下堀切。
(中)西矢倉台は立ち入り禁止のようです。
(右)堀切の反対側通路下を見ると桟橋が復元されています。
本城西側(西矢倉台~物見台)
(左)西矢倉台通路。西矢倉台から実城方面を向かう通路です。
(中)馬場下通路の虎口
(右)竪堀と石垣土塁
(左)馬場下通路左手側には建物があった模様です。
(中)物見台。当然展望台が設置されていますが、簡素なものです。
(右)物見台手前の馬場通路に残る石塁跡。
本城西側(馬場曲輪付近)
(左)馬場通路から実城方面に向かうと馬場曲輪があります。
(中)馬場曲輪全景
(右)馬場曲輪の西側にある馬場下曲輪。右手側は馬場通路です。
実城
(左)大手虎口遠景。
(中)大手虎口手前に見える三の丸下堀切。馬場曲輪と実城にある三の丸を隔てる大規模な堀切です。
(右)大手虎口前にある月の池
(左)大手虎口左手側の石垣。
(中)大手虎口南上段曲輪。この曲輪には井戸跡もあります。
(右)大手虎口南上段曲輪から二の丸、三の丸方面を見ます。両曲輪は新田神社関連と思われる建物が立ち入りできないようです。
(左) 大手虎口南上段曲輪の南側にある南曲輪にはる城域模型。この曲輪は休憩所や説明板なども設置されています。
(中)南曲輪から本丸方面へ向かう通路。
(右)本丸である新田神社を南側から見ます。本丸手前下の、通路に見える部分は御台所と呼ばれていたようで標柱がありました。
(左)御台所から見た本丸。
(中)本丸内。拝殿の脇には城跡碑や説明板などが設置されています。
(右)本丸手前の石垣。
撮った画像が多く、選ぶのがやや大雑把になってしまいました。それだけ見所の多い城であったと思います。
金山城歴史
この城は室町時代の1469年に岩松家純によって築かれたのが始まりと言われています。
岩松氏は源義国の末裔で足利氏、新田氏の流れを組んでいます。
当時岩松氏は享徳の乱により古河公方方と幕府方に分裂していました。
しかし幕府方についていた家純が古河公方方についていて岩松氏当主で従兄弟にあたる持国を討ち、持国次男の成兼を破り当主となり城を築いたのだそうです。<br /> 家純は長子明純を勘当しますが、他に後継者がいなかったため、重臣横瀬氏の働きかけで明純長子で孫にあたる尚純を後継者とします。
しかし1494年に家純が没すると横瀬氏が台頭してきたため、主導権を巡って対立します。
1495年、明純、尚純親子は横瀬成繁、景繁が守るこの城を攻撃します。
その際、犬懸長尾氏の長尾房清が支援するも岩松氏側は劣勢で、古河公方による調停の結果、当主尚純は子の昌純に家督を譲って隠居となります。
これにより岩松氏当主は横瀬氏の傀儡となります。
昌純は横瀬氏と対立して1529年敗死。その跡を継いだ氏純は1548年頃自害。その子守純に至って横瀬成繁(先に出た成繁の曾孫)により城を追われます。
岩松氏から簒奪した成繁は由良と改姓します。
そして上杉謙信の関東出兵に際して当初は上杉方についていた物の後に離反します。
1573年、上杉軍の攻撃を受けるも成繁は守りぬきます。
1583年。成繁の子国繁は厩橋(前橋)城を攻め落とした北条氏直の元に出向きますが、その際に氏直から金山、館林両城を対佐竹の為に借用を申し入れて、国繁はそれを受け入れます。
しかし反発する家臣が国繁の母である妙印尼を擁立して籠城したため、後北条氏の攻撃を受ける事となります。
籠城側は佐竹氏、佐野氏と結び反攻して後北条側の小泉城を攻めるなどするも、翌1584年後北条氏に降伏し城は後北条氏に明け渡し、国繁は桐生城へ移ります。
由良氏が移った後は後北条氏家臣の宇津木氏久らが城番をしていた模様です。
城が現在の形になったのも後北条時代のようです。
そして1590年、小田原の役に際して落城し廃城となったようです。