この日は昼過ぎに外出して、JR高崎線深谷駅から南西に2.5kmほどの場所へ向かいました。
概要
この場所は平安末期に人見氏が居館を置いたと云われ、部分的ですが遺構が残っています。
人見館散策
(左)北東側から見た城域。
(右)城域北東端付近にも遺構が残っているようですが、藪が酷くて確認出来ませんでした。東側の郭は藪以外の場所は宅地となっています。
(左)城域中央部にある説明板。
(右)説明板。
(左)説明板脇から見える北側空堀。
(右)西側に向かう道路沿いに土塁跡らしき物が見られます。
(左)西側空堀。
(右)西館と呼ばれている郭の内側は現在畑地となっています。
(左)二重になった空堀の外側。こちらはかなり浅くなっています。
(右)外側の堀から郭を見ます。ちょうど城域の南西端に当たります。
人見館歴史
この館は平安末期の人物である、川勾政経が居館として築いたと云われています。
政経は武蔵七党猪俣党の支流と云われ、人見に置いたことで人見六郎を称したと云われていますが、政経の父である政基が人見六郎であるとする記述もあります。
人見氏は鎌倉幕府の御家人となりますが詳しい動向は分かっていない様です。
しかし南北朝時代の1333年、赤坂城で討ち死にした人見光行(恩阿)が知られています。
人見氏は室町時代初期に丹波国に移ったとされているようで、その後深谷上杉氏の上杉憲武が居を置いたそうで、現在残る遺構は憲武によるものとされています。
しかし一方で、人見治部大輔なる人物が天正十八年(1600年)に残した碑で「歴代此地に在住し、上杉氏に奉公せしものなるべし」と記されていたとする資料があるようで、人見氏が室町時代以降も館に住み深谷上杉氏が小田原の役で改易されるまで仕えていたとする見方もあるようです。
参考
現地説明板
日本城郭全集4
余湖くんのホームページ