この日は昼頃に外出して、東武東上線寄居駅から西北西へ2kmほどの場所にある諏訪神社へ向かいました。
概要
諏訪神社裏の山は花園城の跡で現在も遺構が残っています。
花園城散策
城下~城内
城内へ向かう道は無い様で、主に竪堀から登って行くことになります。
城内
二郭、三郭間の堀切から三郭に上がり、そこから西の主郭方面へ向かいます。
三郭の東にある東郭は後で見る予定でした。
下山
本来は東郭まで行ってから降りる予定でしたが、西側腰郭から離れた直後に滑って膝をひねる負傷をしてしまい、やむなく降りる羽目になりました。
花園城歴史
この城は武蔵七党猪俣党の猪俣政行によって築かれたと言われています。
平安末期の頃で、1155年の事とも言われているようです。当然現在残っている様な城では無かったと思われます。
政行はこの城に拠って藤田氏と称し、その後しばらく藤田氏代々の居城だったと思われます。
政行や子の行康はいわゆる源平合戦では源氏方に参戦し戦功を上げた様です。
行康は1184年の一の谷合戦で討ち死にしたそうですが、子の能国が跡を継いで戦後は御家人になったとされています。しかしその後藤田氏の動向は定かで無い様です。
戦国時代、当時の藤田康邦は山内上杉氏に従い、天神山城を本拠にしていたそうで、その支城になっていたと思われます。しかし山内上杉氏が敗れると後北条氏に従い、北条氏康の四男である氏邦を婿養子にして家督を譲ります。
氏邦は本拠を鉢形城に置いたため、その支城として用いられたと思われます。
1590年、小田原の役に際して鉢形城と共に落城し廃城になったと見られている様ですが、詳細は分かっていない様です。
感想
先述の通り、整備された道は無さそうなので竪堀を登っての進入でした。
当然傾斜のキツい部分はありますが、それよりも地面を覆う枯れ葉が滑りやすいのが問題でした。
遺構としては竪堀、堀切が主でどちらも見応えがあります。
西や南に展開している腰郭も結構な規模があるようですが、元々腰郭まで全部見るのは厳しいかと思っていました。
しかし途中で平坦な場所に関わらず枯れ葉で滑ってしまったため、予定していた東郭外側の堀切まで到達するのを断念せざるを得ませんでした。
参考
藤田氏 – 武家家伝
藤田氏 – wikipedia
日本城郭全集4