この日は遅めの時間に外出して、京王線多磨霊園駅から北へ1.5kmほどの場所にある浅間山公園へ向かいました。
概要
この浅間山公園の辺りには人見氏の屋敷があったという伝承があったのだそうです。
浅間山公園散策
(左)南側から城域方面へ向かう道。
(右)公園内の上り道。
公園内にある人見四郎の墓跡。
浅間山公園は三つの小高い丘からなっており、墓跡は最も南にある前山の頂上にあります。
(左)前山頂上。手狭で屋敷を置ける場所とは思えません。
(右)前山の北にある中山の頂上。前山頂上よりは広い場所です。
公園北側にある堂山頂上には浅間神社があります。
また、この辺りは南北朝時代の1352年に南朝の新田義興らによる軍勢と足利尊氏の軍勢が戦った古戦場でもあります。
西側から見た城域遠景。
人見屋敷歴史
この屋敷については実在も含めて詳細は明らかではありません。
新編武蔵国風土記稿にて人見上屋敷、下屋敷の伝承を伝えているようですが、何者が居を置いていたのかは定かではありません。
武蔵名勝図会には『人見村 府中駅より十八町を隔て、東の方に当る。この村は往古武蔵七党の内より出たる人見氏の住居せし地なり。』とあるものの、伝承と無くただ断言しているだけで根拠が無く人見氏の居館があったとする根拠はない模様です。
墓跡がある人見四郎については、鎌倉時代末期の人物である人見光行を指すとする見方もあるようです。
しかし石碑に「墓跡と伝えられる」と記されており、人見四郎の墓があったという伝承の石碑でしかありません。
また光行の人見氏も根拠は深谷にあったとされております。
もっとも墓があったからと言ってそこに居館があったと限らない訳ですが・・・
そこで「浅間山(人見山)付近に何者かの屋敷があったという伝承がある」以上の事は断言出来ないのが現状と言えます。
感想
墓跡がある前山よりは、中山や堂山の頂が屋敷が置かれた可能性はありそうに思えます。
しかしその屋敷が人見氏のものである根拠はありません。