昨日は昼過ぎに外出して、東武伊勢崎線越谷駅から北東へ1kmほどの場所に向かいました。
概要
この辺りは徳川将軍家の宿営所である越ヶ谷御殿があったのだそうですが、現在遺構は残っていません。
越ヶ谷御殿散策
日光街道から城域を見ます。
戦前の地図を見るに、この辺りがかつての城域西端付近だったと思われます。
(左)城域北端にある城跡碑と説明板。
(右)城域内を流れる逆川(葛西用水路)は戦後に通されたものです。
城跡碑と説明板。
説明板は読みにくいです。
(左)城跡碑前から望む元荒川。御殿造営時点では荒川の本流だったようです。
(右)城跡碑の東にある稲荷神社。
(左)城域の西にある元荒川橋。
(右)元荒川橋から見る元荒川。
(左)北側、元荒川の対岸から城域を見ます。
(右)城域北側対岸にある久伊豆神社の参道。久伊豆神社は武蔵七党の一つ、野与党の氏神なのだそうです。
越ヶ谷御殿歴史
この場所は鎌倉時代に古志賀谷(こしがや)太郎なる人物が館を置いた事に始まるそうです。
古志賀谷氏の詳細は分かっていませんが、武蔵七党の一つである野与党の流れを組んでいると見られています。
同時期には古志賀谷(次郎)為基なる人物もいた模様です。
古志賀谷氏の館がいつまで用いられていたのか分かりません。
戦国時代の1553年頃、後北条氏に仕えた会田幸久が居館を置いたと言われています。
幸久は元々信濃小笠原氏に仕えていましたが、小笠原氏が武田氏に敗れて没落すると後北条方の岩槻城主太田資正に仕えます。幸久は後に北条氏康直属の家臣となっています。
また幸久の子である信清は資正から一字を与えられて資清と名乗っています。
資清の子である資久は1590年、徳川家康が関東に入封されるとその家臣となります。
1604年、資久は家康の求めに応じて敷地を提供し、越ヶ谷御殿が造営されます。その後会田氏は資久の子資勝は秀忠の小姓として仕え、孫の資信は幕臣として500石を賜っています。
御殿は家康、秀忠の代に使用され、1649年には4代将軍家綱が日光社参に際して用いています。
しかし、1657年江戸城が明暦の大火で消失した際に解体されたのだそうです。