この日は昼を少し過ぎた頃に外出して、東武東上線川越市駅より北東に2kmほど歩いて川越城へ向かいました。
(中)水道局付近にある浮島稲荷神社。かつてこの辺りは湿地帯で七ツ釜と呼ばれていたとか。
(右)本丸御殿外観。現存しているのはかつてのごく一部の模様です。
本丸御殿
(中)御殿内廊下。
(右)展示室にある『本丸住居絵図』
(左)御殿から見た家老詰所。中庭からは連絡通路の跡が発見されている模様です。
(右)家老詰所内の畳廊下。
(左)詰所の一角にはこのような人形が置かれています。服装は江戸時代の物に見受けられます。
(右)詰所から見た縁側と中庭。こういう所を見ると、つい座って休んでしまいます。
(左)廊下。先の場所と正反対に当たる場所です。この突き当りには中の口と呼ばれる小規模な玄関があったのだそうです。
(中)中の口。現在は当然出入り口としては機能しておらず、城域全体の図面が展示されています。
(右)大広間。36畳の広さで現存している中では最も広い部屋です。来客が城主と面会するまで待機する部屋だったのだとか。
本丸周辺
(左)本丸御殿に隣接している三芳野神社がある場所は、天神曲輪と呼ばれる曲輪だったのだそうです。神社自体が築城以前から存在していたのだそうで、天神と呼ばれていたのでしょう。またこの神社は童謡「通りゃんせ」の舞台と言われています。
(中)三芳野神社境内の土塁。
(右)現在博物館が建っている二の丸跡から本丸方向を見たもの。途中の駐車場前の路上には本丸門跡の標柱があります。
(左)本丸御殿の南にある富士見櫓跡の碑。
(中)富士見櫓跡登り口と田曲輪門跡標柱。
(右)富士見櫓跡上り道を見上げます。
(左)富士見櫓跡の道。
(中)頂上部は平場になっています。かつてここに建物が建っていたのでしょう。
(右)櫓跡の一角には神社が建立されています。
城域と城下町
(左) 二の丸である博物館前から大手門である市役所方面に向かう途中に中ノ門堀跡があります。写真の場所には中ノ門と呼ばれる門があり、江戸時代に入っての1639年当時の川越藩主だった松平信綱が城を大改修した際に堀が造られたのだそうです。ちなみに堀跡は現在整備されて公開されていますが、訪れた時はご覧のとおり閉園していました。
(中)市役所前には大手門跡の碑と道灌像があります。
(右)市役所前から少し西へ進み交差点を左に入って南下すると、所謂小江戸と呼ばれる街並みである川越一番街となります。
左から川越元町郵便局。時の鐘。他は街並みを思うままに撮った物です。しかし訪れた時にはすっかり暗くなっていたのが残念ではあります。
この城は1457年に扇谷上杉氏の当主上杉持朝が家臣の太田道真、道灌親子に築かせたと言われています。それから扇谷上杉氏の本拠でしたが戦国時代に入ると後北条氏と争奪戦が繰り広げられることになります。そして1546年後北条方が抑えていた河越城を奪還しようとした扇谷上杉氏らの連合軍8万が包囲しますが、救援の為出陣した北条氏康の軍勢8000に夜襲を掛けられ当主や重臣を討たれて敗走します。いわゆる河越夜戦ですが、これにより武蔵国は後北条氏の支配下となったとされています。
河越城は後北条氏にとっても重要な拠点で、家臣の大道寺氏を城代として武蔵国支配の拠点としました。
1590年の小田原の役では大道寺氏率いる河越衆は上野国松井田城で降伏。城代直英も開城します。
城代大道寺氏は徳川氏に仕え、川越城には徳川氏家臣の酒井重忠が1万石の所領を与えられ入城、立藩します。以降川越藩は譜代大名が藩主を努めて幕末まで続きます。