11/12/24 鉢形城

この日は昼過ぎに出て、東武東上線寄居駅から南に1kmほどの場所にある鉢形城へ。

Pc240346 Pc240348 Pc240349(左)北側の荒川対岸から見た城域遠景。

(中)城域北を流れる荒川。この城は荒川と深沢川が合流する台地上に築かれています。

(右)北側の城跡公園入り口にある城跡碑。

Pc240350 Pc240351 Pc240352 (左)案内板。城域が広めであることが見て取れます。

(中)城域北端にあたる笹曲輪。

(右)笹曲輪にある城域の模型。

Pc240353 Pc240354 Pc240358 (左)笹曲輪から本丸方面に向かう方向には石垣も見受けられます。

(中)石垣。

(右)城域を通り抜ける道路。大手方面まで続いています。ちなみにこの辺りは伝御殿下曲輪とされ、右手側には伝御殿曲輪があります。

Pc240361 Pc240359 Pc240362(左)道路から伝御殿曲輪へ向かう道。若干の高さがあります。

(中)伝御殿曲輪入り口の標柱。

(右)伝御殿曲輪内。

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(左)城域東側の外曲輪。

(中)同じく外曲輪。土塁らしきものが見受けられます。

(右)内曲輪と外曲輪の間には深沢川が流れており、天然の水堀と言えます。

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(左)外曲輪から見たニの曲輪。

(中)ニの曲輪東側。

(右)三の曲輪、ニの曲輪間の空堀。

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(左)ニの曲輪東側の馬出。

(中)ニの曲輪西端付近にある標柱。

(右)二の曲輪から見た三の曲輪。三の曲輪が若干高くなっています。

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(左)空堀の底には畝が見受けられます。障子堀だったようです。

(中)ニの曲輪と三の曲輪間西側にある馬出。写真は三の曲輪側から撮ったもの。

(右)馬出は後方にあたるニの曲輪とも細い土橋で繋がっています。

Pc240414 Pc240412_2Pc240407_2 (左)大手方向から見た三の曲輪土塁と空堀。

(中)同じく大手方向から見た三の曲輪虎口。

(右)三の曲輪内。東側から虎口方向を見たものです。

Pc240410 Pc240415 Pc240416(左)三の曲輪内の復元石垣。

(中)三の曲輪に隣接した伝秩父曲輪の門。

(右)伝秩父曲輪内。 西側に石垣が聳え、曲輪内は四阿や庭園跡、井戸跡があります。

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(左)大手付近にある諏訪神社。諏訪神社境内となっている場所は独立した曲輪となっており、伝諏訪曲輪とされているようです。

(右)城域はJR八高線がかすめています。線路の向かいから諏訪神社方面を見たもの。案内板によれば、この通りに大手があった模様です。

この辺りで大分暗くなっていたので撤収。当然来た道を戻って帰りました。

この城は1475年に山内上杉氏重臣、長尾景信の長男である長尾景春によって築かれたと言われています。
景春は父の死後、長尾家の家督を継げなかった事に不満を持ち鉢形に城を築いて、そこを拠点として主である上杉顕定に対して反乱を起こします。
長尾景春の乱のと呼ばれるこの反乱は、上杉氏の敵対勢力である古河公方足利成氏や周辺の反上杉勢力と結びつき関東一帯に広がります。
しかし1478年、扇谷上杉氏の重臣太田道灌が上杉方と古河公方の和解を行ったことにより景春は追い詰められ、道灌により鉢形城は陥落し景春は武蔵国から落ち延びますが、景春自身はこの後も抵抗を続けることとなります。

これにより顕定が居城としますが、扇谷上杉氏との抗争を経た後の1510年越後に攻め込んだ際に敗死します。

顕定死後は養子の顕実が城主となりますが1512年に同じく顕定の養子である上杉憲房との家督争いに敗れ、山内上杉氏の家督を失い落ち延びていきます。

顕定が落ち延びた後しばらくは山内上杉氏の拠点として用いられていましたが、1546年の河越夜戦後は後北条氏が次第に関東の覇権を確立し、1560年頃に北条氏康四男の氏邦が入城し大規模な改修を行ったとされています。

その後は1569年に武田信玄、1574年には上杉謙信が周辺を攻撃しています。

そして1590年の小田原の役では沼田城代猪俣邦憲ら一ヶ月間籠城するも開城し、城は廃城となった模様です。

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