この日は昼過ぎに外出しました、当初は三崎口へ向かうへ向かうつもりでしたが、電車を降りそこねたので予定を変更して新宿から小田急で川崎へ向かうことに。
向ヶ丘遊園駅で下車し、南西へ1km程歩くと目的地です。
(左)城跡がある生田緑地入り口(北口)。駅からほど近い場所ですが、ここから登り道が続きます。ちなみに入り口から入った場所は長者穴古墳群と呼ばれている遺跡で横穴墓が多数並んでいます。
(中)登り道途中。
(右)道を登り切ったところにある広場。飯室山広場と呼ばれている場所で枡形山への道標や東屋があります。なお、日本城郭全集ではこの場所を出城としています。
(左)飯室山から枡形山へ向かう尾根道。
(中)枡形山城入り口。二箇所ある入り口には冠木門が設けてあります。
(右)広々とした城跡の広場。やたら目立つ建物は展望台ですが、到着したときは閉門するところで入ることは出来ませんでした。
(左)この城は天然の要害で城郭遺構らしきものは見受けられませんが、門や塀などが城跡の雰囲気を出しています。
(中)枡形山の標柱。
(右)広場にある城跡碑。
この城は鎌倉時代に稲毛重成によって築かれたのが始まりと言われています。
小沢城から堅固なこの地に城を築き、鎌倉の守りを固めたものと思われます。
畠山重忠の乱後重成が謀殺された後は不詳ですが、室町時代には稲の目図書と呼ばれる豪族が居していたと言い伝えられているようです。
また1504年に既に小田原を本拠としていた北条早雲は扇谷上杉朝良と手を結び関東管領山内上杉顕定の軍と立河原で戦います(立河原の戦い)。その際に早雲はこの城に陣取ったと言われています。
その後も後北条氏の支配下にあって拠点として利用されていたかは分かりませんが、1569年に武田信玄が小田原に向けて侵攻した際に、豪族の横山弘成が枡形山城で待ち受けるものの武田軍は枡形山を通らなかったのだそうです。