この日は早く起きることが出来たので遠出することに。
京急線の快特で一気に移動したあとは普通浦賀行きに乗り換えて移動します。
目的地である浦賀城は駅から南南東へ1kmほどの場所にあります。
(左)西側から見た城域全景。手前にある東叶神社は参拝客がひっきりなしでした。縁起の良い名前と言うことで人気があるのだそうです。城域は叶神社裏山で明神山とも呼ばれています。
(中)城跡までは階段を登って行きます。
(右)浦賀城主郭。勝海舟断食の地などがあります。
(左)主郭南端部にはベンチや説明板があり、明治維新のきっかけの一つであるペリー来航の舞台となった浦賀の港から房総半島ままで見渡すことが出来ます。
(中)説明板。
(右)城跡主郭部から見た房総半島。
(左)主郭近辺にある勝海舟断食の地。1860年、勝海舟は咸臨丸での太平洋横断前に航海安全を祈願して、この地で断食したのだそうです。
(中)主郭北側の堀切周辺。下調べ不足でどの辺が遺構かはっきり分かりませんでした。
(右)叶神社北へ200mほどの場所にある東林寺裏山も城域だそうですが、進入路が分からず終いでした。
この城は後北条氏が里見水軍に備えて築いたものと言われています。
三浦半島近辺は元々三浦氏が治めていましたが、1516年に北条早雲によって滅ぼされて後北条氏が治めることとなりました。
この城はかつて三浦氏の本拠だった三崎城の支城として機能したようですが、1590年の小田原の役で廃城となります。
しかし浦賀への黒船来航などの後、城域南端部に明神崎台場が築造され、再び沿岸の警備に用いられることになったのだそうです。