久留里城を廻った後、館山へ移動して一泊。
翌朝館山城へ向かいました。
(左)館山駅近くの北条海岸
(中)館山駅
(右)北から見た館山城遠景。
(左)駐車場にある案内板。
(中)城山方面へ向かう道。斜面になっています。
(右)城山西側の西ノ台と呼ばれた曲輪の近辺。
(左)西ノ台から城山へ向かう道。もともとこのような道があったのか定かではありません。
(中)城山(本丸)には模擬天守があります。中は資料館のようですが年末のためか開いていませんでした。
(右)城山から西側を見ると富士山が薄っすらと見えます。望遠鏡もあるのでそれを使うと良く見えました。
(左)城山の西側に見える腰郭。
(中)模擬天守の説明。隣には標柱もあります。
(右)城山にある浅間神社。
(左)二の丸とされる千畳敷には庭園や茶室があります。
(中)城山南東から南へ向かう道。小規模な曲輪が続き、もっとも古城跡らしい雰囲気があります。
(右)御厩と呼ばれる曲輪を東から見ます。御厩からは建物の礎石などが発掘されているのだそうです。
(左)城の南東部にある八人の忠臣の墓。南総里見八犬伝の八犬士のモデルになったと言われています。
(中)御厩西側の高台は櫓跡と言われているようで、物見だったのかも知れません。
(右)駐車場付近の鹿島堀跡。関ヶ原の役後に加増された常陸国鹿島の領民を使役して掘削したのだそうです。
館山城は岡本城を本拠地としていた里見義頼が1580年頃に築かせたと言われ、この頃は岡本城の一支城であったそうです。
1590年に義頼の子、義康は小田原の役で遅参・惣無事令違反で咎められて所領を安房一国とされてしまいます。
里見氏が本拠を館山城に移したのはこの頃と思われます。その後義康、忠義の二代で鹿島堀など城の改築や城下の整備を行いますが、1614年に忠義は所領を没収され伯耆国倉吉に配流、忠義が1622年に没すると側室の子がいた物の無嗣改易、大名としての里見氏は滅亡しました。
里見氏の館山藩が廃藩された際に館山城は廃城され破却されました。里見氏改易に当たっては幕府の老中だった大久保長安に連座させられたと言われていますが、外様でありながら江戸湾入り口の一角で12万石も有している里見氏に脅威を持っていたために排除したされる見方もあります。
八犬士のモデルとされている八人の忠臣(八賢士)は忠康が没した際に殉死したと言われている人物たちです。
城は近世城郭として整備されたため非常に広いですが、戦時中に高射砲陣地で置かれたために遺構は非常に少ないとされています。特に本丸である城山はかなり掘り下げられて削平されています。城を囲んでいた鹿島堀も住宅化により残っているのはごく一部です。
それでも天守や八賢士の墓など、見所もあると言えます。