第二次流山遠征(後半)

名都借城跡近辺から北西へ歩く事十数分。
メインの目的だった前ヶ崎城跡へ到着。
現在は主郭が前ヶ崎城址公園になっています。

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(左)北から見た城跡遠景。

(中)公園となっている主郭への階段、左右は土塁です。

(右)説明板。

城址公園の階段を登って主郭へ到着すると土塁に囲まれた空間です。
北、東、南が土塁の三方が土塁に囲まれています。
西側は過去の道路工事で削られたために残っていないそうですが・・・

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(左)北から見た主郭。土塁に囲まれています。

(中)主郭南側の虎口、右手には櫓台跡があります。

(右)南から見た主郭。左手側(西)のみ土塁がありません。

この城跡は三つの郭が南北に連なった縄張りだったということです。

そういうわけですので、二の郭や三の郭があったあたりも歩いてきました。現在は住宅地や畑ですが、郭があった辺りを東西に横切る道が当時の空堀跡だったそうです。

二の郭、三の郭の東側は前ヶ崎谷津が広がり、名都借城とは目と鼻の先だったようです。

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(左)主郭南側の空堀跡。

(中)二の郭と三の郭の間の空堀跡。左手側が二の郭です。

(右)二の郭。今は住宅と畑です。奥の森が主郭。

この二つの郭を廻るころにはバテてしまいましたが・・・

ちなみにこの城は小金城の高城氏が支城として築いたと言われているそうです。
また1478年太田道灌が臼井城を攻めた境根合戦の前哨戦がこの城で展開したと言われ、太田側が拠った前ヶ崎城を千葉軍が落とし、その後千葉軍は境根で太田軍に敗れ臼井城に拠り、太田側は堅固な臼井城に多大な損害を被りながらも陥落させた・・・という流れだそうです。
臼井城は上杉謙信も攻撃に失敗していますが・・・

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